第53話 零にして無限の存在
――その後
包丁は消毒液に数日浸したのちに、熱消毒を行ってから使用することにしたそうだ。
刃先に残っていた白い虫さんは羽が生えて、どこかへ飛んで行った。
ポワソの森の住人になると言い残して。しゃべるんだな、虫って……。
一方、アスカとヤマタノは、バケツになみなみと注がれた消毒液に浸かる包丁を見つめながら、
「ばい菌とか全部死んでおるじゃろうが……」
「精神衛生上よくないの~」
と、小さな嘆きを漏らしている。
二人は今後、あの包丁で作られた料理を出されていくのだろう……俺は二度と、ミュールからごちそうにならないようにしようと誓う。
ともかく、騒動を終えたので、消毒液に浸かった包丁を残し、家に戻ることにした。
俺は戻り際に、女神が立っていた場所に、その姿を描く。
瞳に宿るは、見るも無残な姿で、痛みに悶える女神の影……。
(俺のせい……になるんだよな)
殺されかけて、とっさに刺した包丁。抜いてくれてと懇願する女神を放置して、世界を去った。
その結果が、これだ。
(先に手を出したあいつが悪い! っていうのは簡単だけど、なんだろう?)
罪悪感? 同情心?
そんなもの必要ない――そういった想いが蓋を押し上げて、様々な感情が入り交じり、心を淀ませる。
するとヤマタノが、ポンと俺の尻を叩いた。
「優しすぎるの」
「え?」
「時に優しさは、心に毒を生むの」
「毒か……そうだな。そうかもな。でも……」
俺は、はにかむような、困ったような奇妙な笑みを浮かべる。
「これは性分だわ。これからもずっと、俺は……このよくわからん感情と格闘していくことになりそうだ」
この答えに、ヤマタノは小さな笑みを見せた。
「ふふ、おもしろいの」
「おもしろいか?」
「うん、とっても。そして気に入ったの。もし、リョウが女の子だったら、お〇してるところなの」
「へ? 今さらっと凄まじいこと言ったよね!?」
話を聞いていたミュールが警告をしてくる。
「ヤマタノさんは女の子が大好きですからねぇ。すぐに襲おうとする。かくいう私も、何度寝室に忍び込まれたことか」
「そ、そうなんだ……」
「ですが、そのたびに返り討ちにしていますけどね」
ジト目で睨むミュール。
睨まれたヤマタノは自分のお尻を撫でる。
「でっかいお注射で何度も血を抜かれたの~。薬の材料にするっていっぱいいっぱい採られたの~」
「それは自業自得でしょう、ヤマタノさん。では、私は……はぁ……」
ミュールは項垂れると、力なく言葉をつなげた。
「謝罪行脚に行ってきます。お騒がせしましたからね」
「俺も付き合おうか?」
「いえ、それには及びません。リョウさんはお客様ですし。それに、普通の人間のあなたが森を歩くと、食べようとしてくる人たちもいますから」
「そ、そっか。それは危険だな」
「ですので、同じおうちに住むアスカさんを……あれ、アスカさんは?」
ミュールの動きに促される形で、俺も周りを見た。
どこにもアスカの姿がない。
「ほんとだ、いない」
「謝罪行脚が嫌で逃げましたね」
しかしそれは違うと、ヤマタノが言う。
「アスカちゃんは用事があるって言ってたの~」
「それは言い訳? それとも、ネトゲのイベントの時間ですか?」
「違うの~。真面目は話だと思うの~」
「……そうですか。ならば仕方ありませんね。私一人で行きますか。お二人は休むなりくつろぐなり自由にしていてください」
ミュールは軽く頭を下げて、森の奥へと向かっていった。
俺は視線を森から下へと向ける。
「じゃあ、戻ろっか、ヤマタノ」
「うん、戻るの~。戻って格ゲーで対戦するの~」
「あはは、望むところだ!」
俺はヤマタノと手をつなぎミュールの家に向かう。
心の隅に、看板のことを想って……。
(日が明ければ、草原へ戻る。看板……何を話せばいいかな? あはは、わかんねぇや)
――ポワソの森より遥か先の空、星々の座する場所
そこは深淵の園。生命の息吹を拒む、静寂が支配する無限の天盤。
己の姿を取り戻した女神は恥辱にまみれていた。
「人に痛みを与えられ、救われる? 認められない」
高位存在である神が、人間に頭を垂れるなどあってはならない。それが世界のルール。
だが、そのルールを覆されてしまった。
ならばどうするか?
「…………消去。このような事実はなかった。そう、事実を消し去ればよい」
女神は神としての力を、指先一点へ集める。
その力は世界を、星を消し去るには十分すぎる力。
「消え失せろ――」
集約された力が地上へ落ちようとしたまさにその時――少女の声が響いた。
「いい加減にせぬか!」
女神はぴたりと体の動きを止めて、瞳だけを横へ動かした。
そこにいたのは――桃色の長い髪と白いワンピースを纏った少女。
「貴様は……神か」
「いかにも。おぬしの同族じゃ。正気が戻り、しっかりワシを認識できるようになったようじゃな」
「正気――くっ!」
「人に救われたことに恥辱を覚えるか? しかしの、その恥辱という感情そのものが未熟である証拠じゃぞい」
「だまれ!」
怒りという感情をむき出しにする神の姿へ少女は――アスカは首を横へ振った。
「悪いことは言わん、退け。退き、一度己を省みよ」
「省みろ、だと? 神である私に反省をしろと? 過ちを認め、見つめろというのか?」
「おぬしには必要なモノじゃ。じゃがな、その感情を恥じる必要はない。神の一面に過ぎぬゆえな」
「黙れ……」
「ワシらは、零にして無限の存在。おぬしという存在もまた零であり無限。零は一なる存在の柱となり、無限は皆となる」
「私は貴様であり、貴様もまた私である。だが――私に刻まれた恥辱は私だけのものだ!」
この言葉に、アスカは思わず噴き出した
「かはっ!」
「何がおかしい!!」
「いや、おかしいのではない、感動したのじゃよ。新しき神は個性を覚えるようじゃな。零にして無限なる存在に個性とは……全知であれば、いま、ワシが得た感動はなかったであろうな。やはり、神生縛りプレイは良いのう」
「貴様は何を言って――」
「じゃがの、恥辱を忘れるために……奪うことはワシが許さん」
アスカの黄金の瞳が、熱い輝きを放つ。
その熱に当てられた女神は、神にあってはならぬ感情――恐怖を知る。
「あああ、まさか……あなたは太陽神ケツア――」
「今は休め、女神よ。おぬしの救い手は、間もなく現れる」
アスカは親指で中指の爪先を押さえ、女神のおでこを跳ねた。
そのちっぽけな一撃で、女神の存在は消失してしまった。
彼女に内包されていた甘い香りも、恥辱も、そのすべてがプリズムのように分解されて、純粋な情報へと還元されてしまったのであった。
「零へ帰り、己を見よ。さすれば、救い手は現れる。ふふ、それはおぬしにとって、不本意な存在であろうがな」




