第49話 堕ちた神
――ミュールのおうち
心の整理がついた俺はその夜、暖かな木製の小部屋、その柔らかなベッドの上に全身を預けて、ぐっすりと寝入っていた。
そこに、突然の叫び声。
「がぁああっぁあぁぁぁぁ!!」
「――っ!? な、なんだ!?」
飛び起き、丸い窓を開いて外を見る。
そこには女性?
体が崩れ、肉片をぼとりぼとりと落とす女性と思われるナニカがいた。
アスカとヤマタノはすでに表へ出ていて、ナニカをじっと睨みつけている。
俺も急ぎ、螺旋階段を駆け下りて、外へと向かった。
――外
「アスカ、ヤマタノ!」
「来たか、リョウ」
「今宵の主役がご登場なの~」
「主役?」
ヤマタノが妙なことを口走った。
それについて深く尋ねようとしたところで、目の前のナニカが俺の名を咆哮した。
「リョウ……リョウ! りょうああああああああああぁあぁぁおおばおあうあうぁ!!」
「――ひっ!! な、なに?」
震える瞳を、ナニカに向ける。
赤黒い体液に濡れた肉の隙間から、骨のない無数の白い足無き節足どもが、互いを踏みつぶし合いながら湧き出す。
粘ついて地面へぼとぼとと落ちたそれらは、ナニカの黒ずんだ足によってぷちぷちと容赦なく潰されていく。
しかし、黄色い内臓をぶちまけながらも、なお本能のままにその足元へと這い寄っていた。
「うぷっ、なんなのこいつ? どうして、俺の名前を?」
「リョウよ、あやつの腹部を見るがよい。覚えがあるじゃろ」
「腹部?」
腐れたはらわたが零れ落ちる腹部へ、嫌悪感を覚えながらも、そっと目を向けた。
そこには……包丁? 一本の包丁が深々と穿っている。
それは腐れた肉など関係なく、ナニカの存在の芯へ刺さっているかのように、体の深い場所に刃を突き立てていた。
「あれは……まさか――っ! 象のおじさんの!!」
そうだ、あれは紛れもなく、象のおじさんから貰った包丁。
それが女性っぽいナニカに突き刺さっている。
つまりは――!!
「お前は、あの女神なのか……」
「り、りょあああ」
女神の口から漏れ出る凄まじい悪臭。
しかしその奥底には、あの脳を溶かすようなお菓子の甘ったるい香気が、今なお、執拗に混ざり合っている。
抜け落ちた歯、腐った皮膚、剥落した頭皮、悪臭を纏うみすぼらしい姿。
そこには、美しかった創生神の姿は微塵もなかった。
「い、いったい、何が?」
この問いに、アスカとヤマタノが答えを返してきた。
「おぬしに腹部を貫かれ、神としてあるまじき痛みという感覚に耐えられなかったのじゃ」
「完全無欠であるはずの自分に対する、あり得ない感情を前に、自己存在そのものが矛盾して、壊れちゃったの~」
「痛み? 感情?」
アスカは女神だったモノを見つめ、小さなため息をついた。
そのため息は小馬鹿にしたわけでもなく、見下したわけでもなく、ましてや同情などではない。
ただただ、呆れの籠ったため息。
「はぁ、まったく何をやっておるんじゃろうな」
「ほんとうなの~。この程度で凶神になるなんて、ダメダメな神なの~」
「ヤマタノも似たようなもんじゃがな。のう、凶蛇神」
「吾輩は龍なの! それに吾輩は由緒正しき災禍神なの~。こんなぽっと出と同じにしないでほしいの~」
二人は身の毛がよだつような存在の前で、のんびりと談笑を行っている。
一方、俺はというと、女性から湧き出る呪いと腐臭を前に、体を小刻みに震えさせていた。
(なんだ、これ? 恐怖ってやつか? くそっ、やべぇってわかってるのに、足が動かねぇ)
思考はしっかりしている。アスカやヤマタノの言葉だってしっかり理解できている。
だけど、立ち上る凄まじい悪臭が、見えない鎖となって俺の喉元を締め上げ、全身の自由を奪い去る。
女神が、俺の名を呼ぶ。
「リョウ、リョウ、許すまじ。りょおああああああああ!!」
「ひっ!」
叫び声を前に腰を抜かしそうになった。
すると背後から、この場の雰囲気からかけ離れた、妙に気の抜けた声が届いてきた。
「もう~、深夜に騒がないでといつも言ってるでしょう、アスカさん、ヤマタノさん」
これは、ミュールの声!
「ミュール! 来ない方がいい!」
慌てて振り返る。
だが、俺の口から出かけた言葉は、その瞬間に悲鳴へと変わる。
「――ひぇっ!?」
そこには――
べっとりとした血で、真っ白なエプロンを真っ赤に染め上げたミュールが立っていた。




