第38話 初めから何もなかった
看板は短い沈黙を挟み、続きを書き綴った。
「……うん。管理者にとって、この宇宙は不可解な存在。唯一、接触者の少年だけが理解の窓口。だけど、少年は管理者から受け取った力を放棄した。つまり、管理者と少年の関係は断絶されたんだ」
メルはしっぽで器用に『?』マークを作り、ぽふんと肉球を頬に当てた。
「それで、その少年を作り出し、そこから私たちを深く知り、それに管理者の理想を反映させて、望む世界を生み出そうとしているわけですか?」
「うん。だけど、管理者は君たちの世界とは異なる場所にいる存在。この世界は、神や連邦や君のような猫の一族といった、様々な者たちが管理している。そこに、許可なく立ち入れない」
勇者と魔王が、その先を推察する。
「神の許可を得る必要がある……そのためには何かしらの取引が必要、となるのかな?」
「取引……っ! そうか、それがあの穴ぽこの存在か!?」
俺たちは皆いっせいに、穴ぽこへ顔を向けた。
そしてすぐさま、看板へ視線を戻す。
「そう、穴ぽこ……神が介入しにくい事案を解決することが、許可の対価。そしてそれは、管理者にとっても都合がよかった。生み出した存在は空白。その存在に経験を与えることが可能。彼が得た経験を通して、管理者もまた世界の理解を深めることができる」
俺は片手で額を押さえて、指先に力を僅かに籠める。
「空白……俺は……俺は、空白じゃないぞ」
「そうだね。君には記憶がある。善悪の基準となる良心もある」
「……なぜだ……何故、それが必要だったんだ?」
「管理者にとって、接触してきた少年の思考が非常に興味深かった。だから、少年の思考をベースに、世界を見つめる瞳が欲しかった」
「それが……俺ってわけか……」
「……うん」
「すうぅぅ、ふぅぅぅ」
何とか感情を抑えようと深い呼吸を行う。
草原の世界には、その音だけが何度も重なる。
看板は俺の様子を窺うように、文字を揺らめかせて、崩れるような文字を描く。
「そのために、君の変化を監視して誘導することが……僕の役目」
その文字を見て、なぜか笑いが漏れ出した。
「へ、へへ。クククク、なるほど。僕の役目を話すか。今みたいな説明だと、役目を話す形で全部説明できるわけか。ふふふふ、あはははは、いや、制限を回避するいい抜け道だよな、看板! ははははは!」
「リョウ?」
「――リョウって呼ぶな! それは俺の名前じゃないんだろ!!」
俺は大きく手を薙ぎ払った! 俺にあるすべてを拭い去るように。
「俺の中の記憶! 家族、友達、学校、何気ない日常の記憶。ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ――俺の記憶じゃねぇってことだろうが!!」
両手で顔を覆い、笑い狂う。
「ひひひひ、ひゃははは! 世界が滅びました? ああ、滅んだの確かだろうな。だけど、それは俺の知っている世界じゃなかった。いや、そもそも俺には世界なんかなかった! それなのに、世界を復元しようと俺は――あははは、最高のピエロだよな。ひゃはははは!!」
顔から離した手は濡れて、瞳に映る景色はぼやけている。
「……くだらねぇ。俺は人間じゃない、ただの操り人形。この怒りも憎しみも、影の世界に対する罪悪感も、全部少年の模倣みたいなもんだろうな」
「それは違う! その感情は君の――」
「黙れよ看板! 俺の心そのものが、その少年ってやつの模倣だろうが! 俺に本物なんてないんだよ! 無かったんだよ!」
「リョウ……」
「その名前で呼ぶなって言ってるだろうが!! くそったれぇぇ!!」
俺は涙を拭うことなく、皆から逃げ出した。
……逃げ出した。そうさ、逃げたい。みんなが当たり前に持っている暖かな場所へと逃げたい。だけど、逃げられる場所なんてない。
――もともと、俺に居場所なんて、どこにもないのだから――
「あああああああああああ!!」
叫ぶ。ひたすら叫ぶ。だけど、この叫びも俺のものではないんだ。
涙の味も、熱も、この痛みすらも!
俺は模倣体。
少年とやらの、まがいもの。
「くそ、くそ、くそ!」
意味もなく、行く当てもなく、ただ走り続ける。
視線の先に穴ぽこが見える。
俺はこの草原から消えたくて、視界に入った穴ぽこへと飛び込んだ。
――――残された者たち
勇者は看板へ声を荒げていた。
「おい、看板! リョウを放っていていいのか!?」
「…………」
「だんまりを決め込んでる場合じゃないだろ。とにかく追いかけよう! 魔王!」
「そうだな、まずは彼を止めることだ」
ここでメルがしっぽをボンッと膨らませて、声を震わせた。
「空間の揺らぎ? ――た、たいへんです! リョウさんが穴ぽこに飛び込んだようです!」
「なに!? その先がどんな世界もわからないのに!? なんて無茶を! メル、すぐにあと追う。どの穴ぽこか案内してほしい」
「それが勇者さん……お二人と違い、彼には私の魔力の紐づけをしていないため、穴ぽこに飛び込んだと同時に、空間追跡が不可能になってしまって……申し訳ございません」
「――なっ!? 看板、君なら」
「…………なんだろう。痛い。物理的な痛みじゃないけど、痛い……」
「おい、看板! しっかりするんだ!」
勇者が必死に呼びかけるが、看板は歪み崩れた文字を浮かべるだけ。
「……そうか、僕は彼を傷つけたことに、傷ついたんだ」




