第113話 憂愁と幸せの形
――ここは、人間と魔族が手を取り合い共存する世界
しかし、争いが失われたわけではない。
僅かな綻びが生まれれば、そこから差別感情が膨らみ、殺し合いへと変貌していく。
そんな薄氷のような関係を強く包み込むのは、二柱の神。
人間の神と魔族の神。
二柱は、人間と魔族が共に歩むための深き教えを説いた。
それが十分に生かされているとは言えないが、縋り、カタツムリよりも遅い歩みであるが、前には進んでいた。
地上で生を営む人間と魔族たちの様子を、宵闇が支配する場から見下ろす人間の神――かつて、勇者と呼ばれた男は癇癪を爆発させる。
「どうして彼らはすぐに争おうとするんだ! 欲深いせいか!? 愛が足らないからか!?」
彼の声に魔族の神――かつて、魔王と呼ばれた男が答えた。
「両方であろう。しかし、神になってこそ、苦労がわかるな」
魔族の神は遠くを見つめ、苦悶の表情を浮かべる。
その表情が意味することを、人間の神はすぐに悟った。
「……堕ちた女神のことか?」
「ああ……人も魔族も、我らが当然の如く行えることを、全く行えない。優しく諭しても、厳しく諭しても理解をしようとしない。いや、聞く耳すら持とうとしない。女神もまた、これに苛立ちを覚えたのだろうな」
「そうだな、疲労が募るばかりでやってられない……だけど、あの女神のようにならない」
「当然だ。女神は一人だったが、我には貴様がいる」
「ああ、私には君がいる。そして……彼がいた」
人間の神は、宵闇の先を見つめる。
空の青と宇宙の黒の境界線に、太陽の光が広がる。
彼は頭をぐっと押さえる。
喪失という苦痛が、忘れられぬ熱となって心に宿り続ける。
「もう、名前も覚えていない。だけど、彼はいた! 彼のおかげで今の私たちがある!! そうだというのに!!」
「我々のような新しい脆弱な神では、管理者の影響からは逃れられない。いずれは、この欠片の記憶すらも、失うやもしれん」
「忘れるものか! もっと強い神になり、彼のことを思い出して見せる。名前も姿も、思い出もな!」
「……それを確実に得られる場所があるぞ」
「零領域か? 零であり無限。一なる場所。そこに行けば、確かに全てを思い出せる。だけど、完璧と引き換えに、私たちという存在が失われてしまう」
「ふふ、個性を重んじる神、か……未熟な神なのであろうな」
「未熟だからどうしたというんだ? それは、成長の余地があるということじゃないか!」
人間の神の声に、魔族の神は強く答えを返す。
「その通りだ! 成長しよう! 完璧な神ではなく、成長する神として、彼のことを思い出そう」
「ああ、当然だ!!」
二柱は並び立ち、拳を作ると、互いにぶつけ合った。
想いが力となり、バチッと火花を散らせる。
それは無作法で、神と呼ぶにはあまりにも稚拙な誓い。
でも、だからこそ、不完全である存在に寄り添える。
ぶつかり合った拳の小さな衝撃が、赤子の泣き声と変わる。
――――
小さな木造住宅。お世辞にも立派と言えない古びた室内で、母の腕に抱かれた赤子が大声で泣く。
その様子を父がのぞき込むが、どうしていいのかわからずに、おろおろするばかり。
そんな夫の姿に微笑を見せて、妻は体を小さく揺らして赤子をあやす。
すると、赤子はすやすやとした寝息を立てた。
母はほんのりと抱きしめる力を強めた。
小さな命へ温かな熱を伝えつつ、後悔を口にする。
「お義母さまにも、この子を見せたかった……」
「それは……」
「私とあなたの国は滅亡してしまった。私の父も母も、あなたの父も母も、全てが失われてしまった。これは……私たちの罪」
「違う! あれは僕たちの責任ではない! 隣国が僕たちの国を狙っているのに、いがみ合いをやめなかったからだ!」
「それでも、要因であることには変わりない」
「…………っ」
母は子へ、悲しみと慈しみが溶け合う瞳をそっと落とす。
「この子には罪を引き継がせない。でも、罪を無かったことにはできない。だからせめて、私たちが心に刻み、責め苦を受けましょう」
「それは……とてもつらい選択だぞ。忘れることもできるのに」
「あなたは、忘れたい?」
「……忘れられない。だから、僕だけが――」
妻はじっと夫を見つめた。その瞳の意味を知り、夫は言葉を止めた。
代わりに、妻が言葉を継ぐ。
「二人で共に支え合いましょう。二人ならきっと――いいえ、必ず乗り越えられる」
「そうだな……ああ、そうだ。君と一緒に、道を歩むと決めた時に、全ての覚悟を決めた。責は心に刻む。だが……」
「だが? どうしたの?」
夫は妻ごと赤子を優しく両手で包んだ。
「この子が笑うたびに、僕たちは前へ進める気がする」
「あなた……」
「だから、僕と君が不幸である必要はない。共にいる幸せこそが、責を背負う力となるのだからね」
「……ええ、ええ、そうね」
妻の瞳から涙が零れ落ちる。その涙に、一人の女性の姿が映る。
――忌々しい、こんな幸せ、認めない――
「え?」
妻の耳には誰かの声が聞こえた。それに耳を澄ませる。
――ですが……幸せである事実は…………認めるべきでしょう……ね――
「お義母……さま?」
「どうしたんだい?」
「いえ……気のせい」
「ん?」
妻は健やかに眠る赤子を愛おしそうに見つめる。
「本当に可愛い子。やっぱり、お義母さまに抱かせてあげたかった。きっと、喜んでくださったと思う」
「う~ん、母上は強情だったからなぁ。それは難しいかも」
「ふふ、さぁ、どうでしょうね」
妻の微笑みは優しくも確信に満ちたもの。
夫にはその心に根差すものはわからない。だが、妻の優しさと強さが彼の覚悟を一層強くする。
暖かな優しさは遥か遠い場所へと伝わる。
しかし、想いは途中で欠片となってしまった……それでもその欠片が、無機質な金属の扉を――トントンと、ノックする。




