第112話 煩悶と不抜
――とある神学者は語る。
一つ、弱き者を守れ
一つ、奪うな、分け合え
一つ、嘘をつくな
一つ、仲間を傷つけるな
一つ、子を守れ
一つ、働き、作り、育てよ
一つ、自明の理を疑い、事象の深淵を観照せよ
異界なる存在を通してもたらされた、神の教え。
七戒と言われる、原始宗教。
我々人類はこの七つの教えから始まり、様々な宗教を派生させた。
しかし……。
神学者は最後の一文を指でなぞる。
『一つ、自明の理を疑い、事象の深淵を観照せよ』
「最後の戒律。ここだけが先の単純な教えとは違い、妙に高尚な言い回しで浮いている」
この一文は、後年に加筆されたものだという説がある。
しかし、原典となる運命転輪の碑に刻まれている。
さらに、刻んだ際に使用したと思われる鉄片の年代測定の結果は、六戒と同じもの。
「つまり、教えが生まれた時代と同じ時代に刻まれたもの……?」
では、加筆なのではなく、これもまた異界なる存在が伝えた教えなのだろうか?
いや、六戒が誕生した時期に、誰かが加筆した可能性もある。
その者が、何者かはわからない。
そう、わからないが……。
「この一文のおかげで、私たちは教えを疑い、常に洗練してきた」
――神の教えは絶対ではない――
「最後の一文から生まれた疑い。その疑いの解釈を巡り、様々な宗教が生まれた」
・神は完璧な存在だが、人は不完全なため教えを理解できない。ゆえに、人が説く教えを疑え。
・神は完璧な存在だが、人にとって完璧とはならない。ゆえに、完璧の意味を疑え。
・神とて過ちを犯す。ゆえに、教えを疑え。
・神は変質を望んでいる。ゆえに、疑いを成長の糧として歩め。
・神の責を疑うのではない。人の責を見つめるのだ。
解釈の数は空に瞬く星々の数だけあり、その星々が、我らの哲学の祖となる。
「そうして、疑いと信仰の狭間に苦しみながらも、私たちは己を見つめ続けている。その先にある、神の頸木から解かれた、人としての責任から目を逸らさずに……だからこそ、真実を見つめ続けることができるのだ」
神学者は原典の複写本をそっと閉じる。
「加筆であろうとなかろうと、この一文が私たちの心を成長させた。責から逃れることなく、見つめ続けることのできる強さを得られた。感謝する」
神学者は左手を胸に当てて、そっと瞼を閉じようとした。
その時、誰かの祈りに触れたような微かな熱が走った。
瞳をそちらへ向ける。
しかし、そこには誰もなく、開かれた窓から風がそよぎ、薄地のカーテンが揺れているだけ……。
「……いない。ふふ、それもそうか。部屋には私一人だ……だが、私と同じく、信仰と向き合う厳しさを知る、気高き魂を感じた。もしや、最後の一文を刻んだ方がいらっしゃったのかな?」
神学者は軽く首を横に振り、自身の馬鹿げた発想に苦笑いを浮かべる。
その笑いを、遠くに立つ神官が見つめていた。
かつて、己の弱さから逃げ、教義を盾に人を裁いた日々。
責任から逃げて、罪を重ね続けていた自分。
その過ちを繰り返さぬよう、そっと書き添えた思いが実り、彼は微笑む。
彼は、偽りの神の言葉に翻弄された存在。
その存在が刻んだ言葉もまた、偽りの神の言葉となるだろう。
しかし、その偽りの神の言葉が、真の人間性を育てたのだ。
星々の数だけ生まれた疑問が、星々の数だけ可能性を生み出す。
その星々の向こうに、奇妙な乗り物が浮かぶ。
――宇宙のとある場所
地球でおなじみのUFO――並んだ丸い窓を持つ、お皿を伏せたような空飛ぶ円盤。通称、アダムスキー型。
その内部には何もなく、ただ真っ白な空間がある。
しかし、クルーの一人であるユニがいる場所だけは、生活臭に満ちあふれ、収納箱やベッドや観葉植物などが置かれていた。
彼女はパッド型のモジュールを見つめ、首を傾げている。
「あれ、神殺しハイパーXのデータがある? ねえ、エイとリアン。どっかで試し打ちでもしたの?」
銀色の肌。そして、真っ黒な大きな瞳に巨大な頭。
これまた地球でおなじみの宇宙人グレイ。
まつ毛の無いエイとまつ毛のあるリアンが、ユニの疑問に顔を向けた。
「覚えていないのか?」
「フン、原始的な脳みそでは、管理者の影響から逃れられまい」
「はい、何の話?」
何も覚えていないユニの様子を見て、呆れるリアン。
エイは小さなため息を漏らし、今ここにある現実を渡す。
「……データ取りは、アスカの協力を得て行った」
「アスカ師匠の? もしかして、師匠を的にでもした?」
「それが可能であれば実に面白い実験だが、アスカが気に食わぬ神に向けて撃っただけだ」
「うわ、私怨で撃ったの? あとで、他の神様から怒られそう」
そう言って、彼女はデータに瞳を戻す。
だが何故か、データと無関係なはずの兄の姿が脳裏を過ぎる――それに頭を捻るユニ。
何もかもを忘れてしまったユニの姿へ、リアンは大仰に首を横に振った。
「みじめだな。認知を歪められたことに気づかぬとは。これだから家畜は……」
「そうとも限らないぞ」
「エイ、貴様はメスを過大に評価しすぎる傾向に――」
「あのリアン」
「なんだ、メス?」
「メス言うな! このデータなんだけどさ、なん~か、見覚えあるんだよね? どっかで似たような実験したっけ?」
「……ほぅ」
リアンは感嘆の息を漏らし、エイはおちょぼ口を、ほんのり緩ませた。
ユニは二人の奇妙な様子に怪訝そうな表情を浮かべる。
そんな彼女に向かって、リアンが話しかけた。
「その兵器のデータ整理を頼む、ユニ」
ユニは一瞬、パッドを持つ指を止めて目を丸くした。
「あ、うん――って、リアンが私のこと名前で呼んでる!? 珍しい~。でも、リアンが名前で呼ぶときって、私を評価したときだよね? 私、なんかしたっけ? ねぇ、エイ?」
「ふふ、さてな」
「なんか、エイまで様子おかしいし。なんなの二人とも??」
少女は、銀色の肌を持つ宇宙人と自分との間で、疑問符を舞わせる。
その疑問符はぴょんぴょんと跳ねて、新米の神々が管理する世界をノックする。




