第108話 まつりのあと
リョウの声が草原を駆け抜け、宇宙の遥か果てにまで広がっていく…………死に満ちた暗闇に浮かぶ、一滴の生命。
青いビロードの玉の内側。死の世界に抗おうと、か細い足をもって大地に立ち、かよわい手を空へかざす。
多くを争い、分かち合い、奪い合い、助け合う。
矛盾を渦のように内包する世界――地球。
当たり前のように繰り返される悲喜劇の中で、何気ない日常を過ごす兄妹。
兄は誘われるように、片手を先へと伸ばす。
――ペチン!
「いった!? なに?」
「なに? じゃないよ! 私のクロワッサンを取ろうとしたでしょ、お兄ちゃん!!」
兄は妹に打たれた右の甲へ息を吹きかけながら、答えを返す。
「クロワッサン?」
「何をとぼけてるの?」
兄は妹を見つめる。長卓を挟んで座る妹。その前にはクロワッサンが山積みになっていた。
「いやいや、多すぎじゃね? どんだけ食うつもりだよ、柚迩」
柚迩と呼ばれた妹は、クロワッサンを懐に抱くようにしながら兄を睨む。
「もう食い意地が張ってるんだから。お兄ちゃんの分はちゃんとあげたでしょ!」
「貰ったけど……七個は多すぎだろ。ってか、お前は何個食うつもりだよ?」
「十六個」
「それ、何のチャレンジ? 食いすぎだっての」
「そういうお兄ちゃんこそ、七個食べきったくせに、私のクロワッサンに手を伸ばそうとしたじゃない」
「手を……?」
兄は首をかしげる。
たしかに手を伸ばした。
そして、何かを掴んだ。
それは決してクロワッサンなんかじゃない。
だけど、とても大切なもの。
(何か巨大な力を掴んだ? いや、止めた? ――これはっ!?)
――でも、残り滓とは言え……まぁ、力になれることもあるかもな――
不意に聞こえた、自分の声。
(なんだ? 誰かを助けた? 俺が? 『運命』の力がなんかしたのか? まったく、いらんというのに)
兄は自分の手のひらを見つめる。そこには何もない。
誰もが持つ、暖かな血が流れる、柔らかな手のひらがあるだけ。
彼は軽く首を横に振り、席を立つ。
「親父とおふくろの分も買ってるんだろ?」
「もちろん。パパは小食なので五個。ママは普通なので十二個」
「それ普通じゃねぇよ。なんで我が家の女衆は大食漢なんだ? 太るぞ」
「摂取カロリーよりも、消費カロリーの方が上回っているから太りませ~ん」
「日常的にどんだけ暴れてんだ……そうだ、牛乳を取りに行くけど、柚迩も何か飲むか?」
「うん、オレンジジュース。それにピーチジュースを8対3の割合で混ぜて、炭酸水も追加で。ついでに氷をマシマシで」
「なんだよ、8対3って……めんどくせぇなぁ~、もう」
そう愚痴をこぼしつつも妹のために冷蔵庫を開き、目的のジュースを取り出すと、扉を閉じた。
――バタン
扉が閉じられると、光の階段の前広場が広がる。
そこにはメル・アスカ・ミュール・ヤマタノ・ミシャの姿が……。
彼女たちはモニター越しから、勝利の雄叫びを上げるリョウの姿を見つめ続ける。
宇宙に広がる光が輝く。
ミシャは光を見つめ、呟く。
「データ取りが終わり、皆さんが引き上げているようですね」
メルがミシャへ尋ねる。
その表情は暗く、しっぽと耳はぺたんと垂れ下がっていた。
「リョウさんが勝利した。私たちは……彼のことを忘れてしまうのですね」
「ええ、世界はリョウさんがいないものとして機能し始めます。そのため、ここで得た情報を、その機能から回避するために、皆さん躍起になっているでしょうね」
ミシャはそう言って、薄く笑った。
連邦の技術力をもってすれば、失われるはずの情報を保護するなど容易い。
彼女が……いや、一万を超える彼女たちが得た情報は、永遠に刻まれ続け、解析を繰り返し、やがては管理者のすべてを知ることになるだろう。
一方、ミュールは、腕組みをして悩ましげに声を漏らす。
「ふぅ……私は忘れてしまうでしょうね。とても残念ですけど、記憶の防御壁の道具を用意してませんでしたので。アスカさんやヤマタノさんは忘れないのでしょうけど」
「ふふ、まぁの。神の力というやつじゃな。と言っても、あの女神や新米神たちでは、記憶保持は厳しいじゃろうが」
「そうなの~、吾輩たちは創生神・破壊神の上位だから忘れないでいられるの~」
「そうじゃ、ミュールよ。おぬしが忘れぬようにワシが――」
「結構です」
ミュールは手のひらをかざし、ぴしゃりとアスカの言葉を遮った。
そして、こう続ける。
「必ず、思い出して見せます。理を司る錬金術師として、こんな不条理な力に屈するわけには参りませんから」
「ふふ、おぬしならそう言うじゃろうな」
アスカは宇宙を見上げる。
神々は去り、大艦隊も消えて、星々だけが寂しげに瞬く。
「……祭りは終わった。ワシらも帰るとしよう」




