第101話 自分としての初心
殴られたせいだろうか?
視界がぼやけている。
だけど、その朧な世界でも、血の色ははっきりと映り、ぼたぼたと垂れる血の量と味は、しっかり肌と口の中に伝わる。
震える瞳を動かす。
看板が「リョウ!」と俺の名を呼びかける文字を映し出している。
(た、立たないと……)
でも、足が思うように動かない。
管理者はそんな俺の様子を観察しつつ、嘲り交じりの笑みを見せて、俺の周りを歩き始めた。
そして、よくわからない話を語る。
「フフ……人間の戦いは、肉体からだった」
「はぁ、はぁ、なに?」
管理者は拳を作り、次には何かを握りしめて、振るう仕草を見せる。
「肉体同士の争い。やがては武器を手にする。その武器は、時に頑丈で、時に切れ味鋭く、時に遠くから放てるものとなっていった」
人差し指をこめかみに突きつけて、何度かトントンと叩く。
「さらには知恵を使い、戦術を生み出した。兵器が誕生し、大量かつ効率的に人を殺せる術を獲得した。実に素晴らしい。だけどな、こいつのせいで、言い訳が生まれちまった」
「はぁ、はぁ、言い訳、だと?」
「フフ、その言い訳ってのはよ、戦い方が増えたせいで生まれた――逃げ道だ」
「逃げ道……?」
「手段が増えれば、それに対する言い訳も増える。俺も同じ武器を持っていたら、同じ数で戦っていたら、罠に嵌らなければ……あーだこーだと言い訳が生まれ、勝ちを勝ちとして認められず、負けを負けとして受け入れにくくなった。だから、お前は正しい」
「い、いったい何の話を?」
管理者は俺の前で止まり、拳を見せつけながら、蔑みの瞳を宿し見下ろす。
「拳は違う……言い訳ができない、力量の差をまざまざと見せつける。だから、お前の選択肢は正しい。拳で殴りつける。それができれば、お前は俺よりも強者だ。フフフ、だけどな――」
美しい顔を醜く崩し、腐臭の漂う微笑みを見せる。
「惜しむらくは、お前にその力がなかったってことだ。くくくく、あはははは」
「このっ――」
俺は立ち上がり、殴りかかろうとした。
でも、足が震えて言うことを聞かない。
震える足を打ち据える。
「くそ、くそ、動け! どうして……あんな奴の拳が、足に来ちまったっていうのかよ!?」
「おいおい、リョウ。最も分かりやすい、拳という力の戦いに、言い訳を持ち込もうとするなよ」
「え?」
管理者は人差し指を、自身の白く柔らかな鼻に当てる。
「鼻が痛むだろう。血が止まらなくて、息苦しく感じてるだろう」
「な、なにをおまえは……」
「口が切れて、鉄錆の味がいっぱいに広がってるだろう」
「や、やめろ。黙れ……」
「腹を殴られれば、衝撃が背中を突き抜け、吐き気を覚える。内臓を抉られたような痛みが、じわりじわりと広がり、治まらない」
「だから、やめろ……黙れよ……」
「意識が飛び、暗闇が瞳を閉ざす。怖いよなぁ、そんな思いしたくないよなぁ」
「やめろよぅ、頼むから、もう何も言わないでくれ……」
「フフフ、殴られたから、足が言うことをきかない? そいつぁ、違うだろ」
こいつが俺に何を行おうとしているのかわかった。
だから、続きを言わせるわけには……。
「や、やめろ、それ以上は――」
彼女はとても酷薄な慈愛の微笑を浮かべる。
「立つと殴られるから、立ちたくないんだろう、リョウ」
「やめろぉおぉぉぉ!!」
無慈悲な真実は、不可視の重力となって俺の体を抑えつけた。
それでも俺は叫んだ。
思いっきり叫んで、管理者の声を掻き消そうとした。だけど、足は動こうとしない。立ち上がりたいのに、立ち上がろうとしない。
見えない重みは、俺の足を草に沈めていく……。
管理者は震える俺の足を見て、笑う。
「フフフ、痛いのは嫌だもんな。俺に向かって殴りかかれば、また、痛い目に遭う。だから、お前は立とうとしないんだ」
「違う、違う、違う!」
「違わねぇよ! いいか、リョウ。よく聞け。お前には素体となったリョウの記憶はあっても、経験はない。つまり、この痛みは、初めてお前自身が知った痛み。初めて痛みを知ったお前はそれに―――」
俺は続きを聞きたくなくて、懇願の声を漏らす。
「だめ、それは言わないで……」
だけど、告げられた冷酷な言葉が、俺の心から熱を根こそぎ奪い去った。
「恐怖したんだよ……」




