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 鼻をくすぐる品の良い香の香り。

 優しく包み込まれる感覚。

 自分を包み込んでいる人物は、見なくても誰なのかすぐに分かった。

 春陽の体温に触れた途端、堪えていたものが崩れていくのを感じる。

 春陽はまじまじと自分を見て、顔を歪めていた。


(こんな汚い姿、見られたくなかったわ……)


 鏡を見なくても、今の自分がいかに酷い姿をしているか想像がつく。

 だが、心の底から安堵した。

 ゆらゆらと視界が揺れ、目の前の春陽の顔がぼやけて見える。


 ――彼はいつも、自分を助けてくれる。手を差し伸べて、冷たい世界から救ってくれる。


 雪花は動きづらい頬を無理やり動かし、やんわりと口角を上げた。


「お会いできて、良かったです……春陽さま」


 雪花が口を開く度、春陽の顔がころころ変わっていく。

 泣きそうに顔を歪めたり、驚いたり。なんだか見ていて微笑ましい。


「雪花……」


「春陽さま、あのっ……」


 背中に回された手に力が込められた。強く、だけど優しく春陽の胸に抱かれた雪花の目からは堪えていた涙がひとつ落ちた。


「怖かっただろう。もう大丈夫だ」


「……あのっ、あの」


 耳元で静かに囁かれる声は心地良い。涙はひとつ落ちればとめどなく流れていく。止めようにも、止まらなかった。


 伝えたいことがあるのに、上手く口から出てこない。

 しばらくの間雪花の啜り泣く音が暗い地下に響いた。

 ひとしきり泣き、袖で涙を拭うと、真っ直ぐに春陽に向き合う。

 春陽に伝えなくてはならないことがあると思い出した。


「あの、春陽さま」


「なんだい?」


「お伝えしたいことがありました」


 雪花はちらりと固まる役人を見てから、深く息を吸い込んだ。


「主上は、決して許されることのないご判断をされておりました」


「どういうことだ?」


 突然何を言い出すのかと春陽は首を傾げた。周囲の役人も騒つく。まるで、雪花の話を遮るように。


「主上は……夕凪さまのお腹の子を殺めたのです」


 雪花は、知り得たことを事細かに春陽に伝えた。真剣に耳を傾ける春陽の顔がこれまで見たことがないほど怒りに支配されていく。

 全てを聞き終えた春陽は「ありがとう」と雪花の頭を撫でると、ゆっくりと座らせ立ち上がった。きっ、と役人たちを睨む。


「そなたらはどこまで知っている」


 普段穏やかな春陽の変わりように、役人たちは恐れ慄いた。しかし、春陽は構わず追い詰めていく。


「なんだ? 兄上から口止めでもされているのか?」


「……っ」


「言え! どこまで知っている!」


「ふっ、なぜお前に言わねばならぬのだ」


 暗闇から嘲笑う汚い声が聞こえてきた。雪花も、怒りに支配されていた春陽も声の方に顔を向ける。

 闇の中から姿を表したのは、雪花を牢に入れるよう指示を出した張本人、帝であった。

 ニタニタと気持ちの悪い笑みで近づく帝に、取り囲んでいた役人たちは一斉に跪く。


「この者たちは私のいうことしか聞かぬ。いくらお前であってもな。春陽」


 帝と春陽の間に火花が散る。火花の勢いは凄まじく、役人はもちろん、雪花もその間に入れば飛び火してしまいそうで思わず口許を押さえた。


「兄上、夕凪殿のことは真実なのでしょうか?」


 春陽は一歩足を踏み出し、帝に問う。その目は憎悪に満ちていた。

 それなのに、主上は悪びれる様子もなく笑い出す。


「何がおかしい……」


 地下に響く笑い声は悍ましく、雪花は眉を顰めた。


「真実だが、何が悪い。ここは私の宮、いや、私の国ぞ? 好きにやって何が悪い」


「限度というものがございましょう?!」


 勢いよく春陽がくってかかるも、帝の態度は変わらない。大きくため息を吐くと、春陽の後ろに座り込む雪花に目を向けた。


「春陽に知られれば騒がれると思ったから黙っておったのに。言ったのはお前か雪花」


「……っ」


 恨みがこもっていそうな凍てついた視線に雪花は身体を震わせた。


 怖い。


 その感情が雪花を支配する。

 また力が暴走してしまうのではないかと頭の片隅で冷静に告げる自分もいたが、目の前の主上を見れば、そんなことすぐに掻き消された。


「だいたいお前など天華宮の妃、ましてや皇后など相応しくないのだ。早々に追い出すことを考えていたが、敦矢に頼まれれば仕方あるまいと我慢してきた。だが、もう良い。敦矢の頼みなど聞かなくてもよくなった。雪花、なんせお前は――化け物なのだからな」


 どきり。心臓が跳ねる。


「私は化け物が嫌いだ。気味の悪い力を持ちながら人間に紛れて平然と生きている奴らが。奴らはこの国を不幸にさせる。だから見つけ次第抹殺しているのだ」


「そんな個人的な理由で、罪のない人々を…… それにこれまで妖が害を成した話などないではないですか」


 悪びれる姿もなく淡々と言う帝に、雪花を背に庇うように立つ春陽は歯噛みした。


「害はなくとも存在そのものが害だ」


 化け物、妖、害……

 馴染みのない言葉が睨み合う二人の口から出てくる。

 人間である自分が、不思議な力を持っていることに疑問は抱いていた。しかも、生まれつきではなく母が亡くなった時から発動するようになったことも不思議だった。


 ――まさか自分は、本当に化け物なのかもしれない。


「最近は全く化け物の姿がなかったから全て抹殺し終えたものだと思っていたが、まさかこんな近くにいたとはな。……そういえば、私はお前と似たような力を持っていた奴を見たことがあったような気がするな」


「……わたくしと、似たような?」


「……今まですっかり忘れていたが、この前のお前の力を見て思い出した。八年ほど前に、北の山に暮らす化け物を見つけ、消すように指示したことがあったな」


「八年前……北の山……」


 聞き捨てならない言葉に雪花は目を見開いた。


「若い夫婦に一人の子ども。男は人間だが、女はそう――雪女だった。化け物だけを殺すつもりが、男が庇ってそいつも殺しちまった。そして仕向けた兵は全滅。その雪女に氷漬けにされていた」


 周囲の音が、どんどん遠ざかっていった。息を吸っているはずなのに上手く吸えず苦しい。

 呼吸が大きく乱れ始め、生理的な涙が出た。


「雪花!?」


 異常な呼吸音を聞き、驚いた春陽は雪花に駆け寄り、背中を撫でた。


「大丈夫、ゆっくり息を吸って」


 激しく呼吸を繰り返す中、ぼんやりと頭に浮かぶあの悲惨な夜の日。

 父と母を殺したのは、大切なものを奪ったのは――こいつだったのか。


「……っおとう、さま、おかあ……さま……」


 息も絶え絶えに亡き二人を呼ぶ。あの日の冷たかった記憶が身体の中を駆け巡った。

 それに。


(……雪女)


 聞き慣れない母の呼び名が、胸の中につっかえて雪花を心をかき乱すのだった。

 

 

 

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