羨ましい……
二連木城を辞した戸田忠次は、闇夜を駆けて岡崎へ。
松平家康は、忠次から報告を受けると渋い顔で腕を組んだ。
「人質、か……。」
家康は低く呟き、ふっと視線を落とした。その横顔には、二十歳過ぎと言う若さに似合わぬ、深く暗い影が差している。
しばしの沈黙の後、家康の口から漏れ出たのは、思いもよらぬ一言だった。
「――羨ましいな。」
「えっ!?」
忠次は思わず声を上げ、驚愕のあまり家康の顔を見つめた。今川を裏切る足枷になっている人質の存在を「羨ましい」とは、一体どういうことか。
家康は力なく自嘲の笑みを浮かべ、遠い目をして語り始めた。
「実はな、忠次。私は昔……父に見捨てられたんだよ。」
風の音が、急に冷たさを増したように感じられた。
かつて織田信秀との戦いに敗れた家康の父・松平広忠は、織田方へ降伏の証としてわずか六歳の竹千代。のちの家康を人質として差し出した。しかし広忠はその直後、織田を裏切って今川方に転身。人質を見捨てるに等しい、非情な決断だった。
「私の命は、あの時そこで潰えていた可能性が高かった。裏切られた織田が、人質の私を即座に亡き者にしても文句は言えぬ。ただ私の母が織田に近い水野の出であったこと。信秀が私を『三河進出の切り札』として生かしておく価値があると踏んだのだろう。運良く私は命を救われたに過ぎん。」
家康は己の胸元をぐっと握りしめ、静かに熱を帯びた声で続けた。
「だが宣光殿は違う。今川に愛想を尽かしながらも、妻の命を案じて動けずにいる。見捨てることなどできぬと、苦悩しておられる。……親に捨てられた身からすれば、それほどに想われる妻君は、なんと果報者か。そして身内をそれほど大切に思える宣光殿は、まこと信を置くに足る仁者よ。」
家康の瞳から自嘲の影が消え、鋭い主君の光が戻った。
「ただ宣光殿に私と同じ奇跡はあり得ぬ。氏真の気性は其方もよく知っていよう。先の『吉田での惨劇』を忘れたわけではあるまい?」
その言葉に忠次の背筋が凍りついた。
永禄四年、今川氏真は松平へ寝返った東三河の国人衆への見せしめとして、吉田城近くの寺で彼らの人質――幼い子どもや妻たちを、容赦なく串刺しにして処刑した。あの凄惨な光景は、今も三河の者たちの脳裏に焼き付いている。もし宣光が今、松平に加担すれば二連木戸田家の妻も間違いなく同じ運命をたどる。
「吉田での惨劇を二度と繰り返させてはならぬ。宣光殿の心をこちらへ引き寄せるためだけではない。あの今川の理不尽な刃から御身内を救うのだ」
家康は忠次を真っ直ぐに見据え、強く言い放った。
「忠次。宣光殿の妻君、人質の救出に全力を尽くせ。手立てはあるか?」
主君の苛烈な過去と人質救出への強い執念を突き動かされた忠次は、深く平伏した。
「ハッ……! この戸田忠次、命に代えましても、必ずや成し遂げてみせまする。」




