不満
三河湾からの冷たい夜風が、二連木城の書院を小さく揺らしていた。
人目を忍び、辛うじてこの城へと上がった戸田忠次は、居並ぶ譜代の臣を下がらせた城主・戸田宣光)と、灯明を挟んで対峙。
「一向一揆の拠点たる本證寺を落とし、今度は我が城へ忍び込んできたか。相変わらず、身軽な男よ。」
苦笑を浮かべる宣光の顔には、一城の主としての威厳の裏に、隠しきれぬ濃い疲弊が滲んでいる。忠次は一礼し、静かに声を紡いだ。
「畏れながら宣光様。本證寺を落としたのは松平の軍勢にございます。私はただ道案内をしたに過ぎません。……しかし、その松平の勢い、もはや一揆ごときで止められるものではございませぬ。」
忠次の言葉に宣光は深くため息をつき、手にした杯を畳に置いた。その瞳に、駿河の主――今川氏真への、鬱屈とした不満が宿る。
「……分かっている。松平家康の勢いは本物だ。一揆にのしかかられながらも、なお我ら今川方を押し返しつつある。だがな忠次。納得がいかぬ。」
宣光は膝を叩き、声を潜めながらも、吐き出すように言葉を続けた。
「氏真様は、口を開けば『自ら三河に入国し、家康を討つ』と仰る。だが一向に駿府を発つ気配がないではないか! いや、分かってはいるのだ。北条の婿殿としての義理もあり、関東の情勢に気を揉まねばならぬ事も。遠州で内紛が勃発していること。その火消しに追われていることも重々承知している。しかしな……!」
宣光の拳が音を立てて握りしめられる。
「総大将たる氏真様本人がこの三河に来られぬことには、我ら今川方の三河国人衆を一つにまとめることなど到底できぬ。皆、いつ梯子を外されるかと疑心暗鬼よ。このままでは遠からず家康に各個撃破され、押し切られるのは目に見えている。」
そこまで一気に語ると、宣光はふっと視線を落とし、自嘲気味に呟いた。
「……いっそのこと、な。この二連木の旗を、引き絞ってしまおうかとも考える。」
それは、今川への決定的な不信の証であり、松平への臣従を意味するあまりにも重い一言だった。
だが忠次が言葉を挟む間もなく、宣光はすぐに首を横に振った。その顔に、より深い苦渋の色が広がる。
「……ただな。妻が吉田で人質となっている。故に今すぐ松平に加担する事はできないのだ。」
東三河における今川方の拠点、吉田城。そこに囚われた最愛の妻の命を思えば、どれほど今川に絶望しようとも軽挙妄動は許されない。それが国人領主・戸田宣光が抱える最大の足枷であった。
沈黙が重苦しく書院を支配する。
しかし、忠次の目は死んでいなかった。宣光の苦悩の源が「吉田の人質」であるならば、それを覆す手段さえ見出せば、二連木戸田家を松平へ引き込める。
「……承知いたしました。」
忠次は深く深く頭を垂れた。夜風が再び、灯明の炎を大きく揺らした。




