味方からも
本證寺・正門の内側。
「おい勝則、早く門のかんぬきを外せ!」
「は、はいっ! ……くっ、泥で手が滑って、なかなか力が入らぬ……っ!」
大混乱に陥る本證寺の境内を背に、戸田兄弟はついに正門へと辿り着いた。
背後からは、武器を持った門徒たちが大勢押し寄せてきている。……ただし、全員が鼻と口をガッチリと布で覆い、涙目になりながら遠巻きに戸田兄弟を囲んでいるだけだったが。
「化け物め、そこを動くな!」
「う、動いたら……その汚泥をこっちに飛ばす気だろう! 卑劣極まるぞ!」
「何を言うか! 我らは至って真面目に戦っておるのだ!」
忠次が抗議の意を込めて一歩にじり寄ると、門徒衆は「ひえぇっ!」と悲鳴を上げて三歩下がった。
その隙に、勝則が執念で巨大な木製のかんぬきを持ち上げる。
――ギギギギギ……ッ!
重厚な本證寺の正門が、内側からゆっくりと左右に開かれた。
門の向こうには、今か今かと突撃の合戦合図を待っていた、松平家康率いる本隊がずらりと陣を敷いていた。
本證寺・正門の前(松平軍本陣)
「門が開いたぞ! 者ども、突撃――」
先頭に立つ松平家の猛将・本多忠勝が、槍を掲げて威勢よく叫んだ。
……が、その叫びは途中でピタリと止まった。
門の隙間から、凄まじい風に乗って漂ってきたのは、大衆が一斉に用を足した後の厠と、数年放置されたドブ川の臭気を煮詰めたような超ド級の悪臭。
「……う、うおえっ!?」
猛将・忠勝が、あまりの臭さに槍を取り落としそうになりながら口元を押さえた。
「な、何事だ!? 一揆勢の毒霧か!?」
本陣の奥から、若き主君・松平家康が馬を進めてくる。
しかし、家康の愛馬は門から漂う異臭を嗅いだ瞬間、狂ったようにいななき、白目を剥いてその場にへたり込んでしまった。
静まり返る松平軍の前に、門の奥から、ドロドロの黒い塊が二つ、のっそりと姿を現した。
頭から何やら野菜の切れ端をぶら下げ、全身から湯気と言うよりは悪臭を立ち上らせた戸田兄弟である。
「殿! 戸田忠次、ただいま戻りました! 約束通り、本證寺の門を開けましてございます!」
忠次が誇らしげに胸を張り、一歩前へ出た。
「ひっ……!」
家康は思わず、見たこともないような引きつった顔で後ずさりした。
「忠次……お前、本当に下水道から行ったのか……?」
家康は鼻をつまみ、声を震わせながら尋ねた。
「はっ! 泥にまみれ、恥を忍んでの大戦功にございます! さあ殿、一気に本堂へ!」
忠次が嬉々として家康の元へ駆け寄ろうとする。
「来るな! 頼むからそこから一歩も動くな忠次!」
家康が悲痛な声を上げた。
「忠次殿! 戦功は認める! 認めるから、ひとまず我らの風下に回ってくれ! 軍の士気(主に嗅覚)が崩壊する!」
本多忠勝が涙目で叫ぶ。
「はっ、ではこれより我らは風下にて、敵の退路を断ちまする!」
忠次と勝則が猛然と風下へ移動すると、ようやく新鮮な空気を取り戻した松平軍の兵たちが、一斉にハッと我に返った。
「お、おい! 門は開いているぞ!」
「泥の化け物に気を取られている場合か! 突撃じゃあ!」
忠勝が涙を拭いながら再び槍を掲げ、怒号のような号令を下す。
戸田兄弟の放つ異臭と異様な姿に、完全に恐慌状態に陥っていた本證寺の門徒たち。そこへ、松平軍の本隊が一気になだれ込んだ。
「ひえぇっ! 化け物の次は、松平の本隊だ!」
「出会え! 出会え! ……うっ、しかし門の周りが狂うほどに臭い!」
一揆勢は武器を手に抵抗を試みるも、戸田兄弟が残していった強烈な残り香のせいで、まともに息を吸うことすらできない。涙を流し、嘔吐し、戦う前に戦意を喪失する者が続出した。
そこへ、怒濤の勢いで突き進む本多忠勝らの猛攻が容赦なく襲いかかる。
もはや勝負にならなかった。難攻不落と謳われた本證寺の防衛網は内側からあっけなく瓦解し、一揆勢は次々と武器を投げ出して降伏していった。
こうして、三河を揺るがした一向一揆の激戦は、戸田兄弟の執念(と異臭)がもたらした決定機により、松平軍の圧倒的な大勝利で幕を閉じたのでありました。




