大混乱
本證寺の最深部――。
そこは、要塞の全容を知る者ですら見落とす寺内のあらゆる不浄が流れ出す「下水道」の出口であった。
「……おい勝則、絶対に口を開けるなよ。いいな、絶対にだぞ!」
「あ、兄者ぁ……さすがにこれは、大衆が挙って用を足した直後の厠より酷い臭いです。本当にここを進むのですか……!」
真っ暗闇の狭い排水路の中、戸田兄弟は文字通り「泥まみれ」になって這いつくばっていた。
頭上からは時折、寺内の門徒たちが流した得体の知れない汚水が降ってくる。日頃の端正な武士の姿はどこへやら。今の二人は頭からつま先まで、ドロドロのナニカに塗装された新種の生き物のようであった。
「我らをコケにした本多正信の。驚く顔を見るためだ。耐えろ!」
「仏罰の前に、臭気で三途の川が見えてきました……っ!」
ズル、ズル、と泥をかき分けながら進むこと半刻。
ついに、寺内の台所へと繋がる排水口の出口が見えてきた。忠次は渾身の力で格子を押し上げると、泥の沼から這い出るようにして、本證寺の床下へと這い上がった。
――バシャァッ!!
ちょうどその時、夜食の炊き出しをしていた門徒の僧侶たちが、運悪くその場を。
「ひ、ひえぇっ!? い、井戸から泥の化け物が湧き出たぞ!」
「ち、違う! 地獄の餓鬼だ! 仏敵が攻めてきたぁ!」
頭から生ゴミと泥を滴らせた忠次と勝則が、ヌッと暗がりに現れたのだ。その姿は、お世辞にも生身の人間には見えない。
「待て、暴れるな! 我らは戸田――」
忠次が弁明しようと手を伸ばした瞬間、指先から飛び散ったドロドロの塊が、僧侶の顔面に直撃した。
「うわあああ! 呪いの泥だ! 触ると腐るぞ!」
「皆の者、出会え! 出会えぇ! 化け物だ!」
パニックは一瞬にして寺内に伝染。
戸田兄弟が「おい、話を聞け!」と一歩進むたびに、門徒たちは「来るなァ!」と大絶叫して鍋や杓子を投げつけ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
あまりの臭気と見た目の恐ろしさに、武器を手に駆けつけた国人衆までもが、戦う前に嘔吐して戦意を喪失する始末。
「……兄者、これ、刀を抜く必要すらありませんね。」
勝則が己の腕から滴る泥を見つめながら、遠い目で呟いた。
「フッ、計画通りだ。このまま本堂へ突撃し、正信の腰を抜かしてやるぞ!」
こうして、難攻不落と謳われた本證寺は、たった二人の「泥まみれの怪人」によって、前代未聞の大混乱に陥ったのである。




