土産
松平家康の本陣。
かつてないほどの張り詰めた空気が、天幕の中に満ちていた。
一揆勢の本拠である本證寺に一度足を踏み入れた戸田忠次に対し、若き主君・家康の視線は、凍りつくほどに冷たい。
「今更何の用だ、忠次。」
家康は床几に腰掛けたまま、吐き捨てるように言った。
「一揆勢に加担し、我が守護不入の特権を破る挙に出たと聞いておる。今更、命乞いにでも来たか?」
はねつけるような家康の言葉。だが、忠次の心は折れなかった。
深く頭を下げながら、静かに、しかし力強く言葉を返す。
「お言葉ですが殿。家康公に認められるには、それ相応の土産が必要であること。重々承知しております。」
「土産だと?」
家康が不審げに眉をひそめる。
忠次は顔を上げ、若き主君の目を真っ直ぐに見据えた。
「その土産とは……我が戸田の手で、あの本證寺を落とすことにございます。」
「……何?」
家康の目が驚きに見開かれる。
場面は数日前、本證寺の門前で数珠を叩きつけた、あの屈辱の夜へと遡る――。
夜風が吹き抜ける、本證寺の裏手。
勝則は不安げな面持ちで、前を歩く兄の背中に問いかけていた。
「兄者、松平の側につくと言うが……我らは一度、一揆側に足を踏み入れた身。おいそれと家康公が信用してくださるでしょうか?」
「勝則の言う通りだ。ただ『正信に腹が立ち寝返りました。』では、家康に鼻で笑われて終わりだな。最悪、諜者と疑われて首が飛ぶ。」
「では、どうするのです?」
「家康に認められるには、それ相応の土産が必要だ。……戸田自らの手で、あの本證寺を落とす。」
「なっ、正気ですか兄者!? これくらいの事をして、やっと戸田家の現状を保つことができるのは分かりますが……あの要塞を、我らだけの兵力でどうやれば……!」
勝則が声を潜めながら激昂するのも無理はない。本證寺は深い堀と頑強な土塁に囲まれた、文字通りの難攻不落の要塞だ。
「だからこそ、今のうちに隈なく探るのだ。あの中にいた我らだからこそ、見つけられる弱点があるはずだ。」
隠密裏に寺の周囲を調べ回る戸田兄弟。
堀の深さ、見張りの死角、城壁の高さ――どれも付け入る隙がないように思えた。
しかし、寺の最裏手に回ったその時、忠次はある一点に目を留め、鋭く足を止めた。
「兄者、何かありましたか? そこはただの、寺の汚水を外へ流し出す……。」
勝則の言葉を遮るように、忠次の唇が不敵に吊り上がる。
そこにあったのは、要塞化された本證寺の、誰もが盲点としている「穴」だった。
場面は再び、家康の前へと戻る。
冷徹な主君の前で、戸田忠次は微塵の揺らぎもない笑みを浮かべ、一言、こう告げた。
「私に考えがあります。」




