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"筆おろし"してください!④

それからしばらくして。


俺は先輩たちと酒を飲んでいる時に、また小野ちゃんの噂を聞いた。


別に、誰かが小野ちゃんを貶めようとしていたわけではない。


サブレも言っていたように、男が何人か集まって酒を飲んでいれば、女の話になることくらいある。


誰が可愛い、誰と誰が付き合った、この前誰々が二人で帰っていた、あいつは誰々を狙っているらしい。


俺だって今まで普通に参加していた。


むしろ積極的に参加していた。


「そういや小野ちゃんの噂って、結局マジなの?」


三年の先輩が言った。


以前の俺なら何も考えずに、間違いなく食いついていた。


だけど、今の俺は知っている。


小野ちゃんは少なくともリプトンの仲間には、こういう噂をされたく無いと思ってることを。


「……先輩、その話もうよくないっすか」


「ん?」


「いや、本人いないところでずっと話すようなことでもないっしょ」


先輩が少し意外そうに俺を見る。


「あれ?カズヤ、この前、この話した時めちゃくちゃ食いついてなかったか?」


「まぁ、そうなんですけど」


否定できない。


あの時の俺は食いついたどころではない。


噂を餌に釣り上げられ、そのまま自分からまな板の上に乗り、最終的に土下座をしていた。


「俺、この間飲み会で小野ちゃんにチクったんすよ。こういう噂流れてるよーって」


「そしたら?」


「小野ちゃん、『別にどうでも良い人たちが勝手に変な話してても気にしないから大丈夫だよ』って言ってました。」


「そうなのか」


「でも小野ちゃん、『リプトンの人たちだけには変な噂聞いて変な目で見られたくないな』って言ってましたよ」


言ってから、少し偉そうだったかと思った。


何しろ俺は、この場にいる誰よりもその噂を擦ってはいけない実績を持っている。


しかし、だから黙っているというのも違う気がした。


昨日まで間違っていた奴が、今日から正しい道を歩いてはいけないなんて決まりはない。


「なんだと……!」


「小野ちゃん……!」


「くそっ!俺たちはなんてことを……!」


「足りてない頭が一人の仲間を傷つけていたとは……!」


「俺、次にこの話してる奴いたら……ぶっ飛ばしてやるよ……」


俺はもっと、「いやでも本当なんだろ?」とか、「お前急にどうした?」とか、何かしら面倒なことになると思っていた。


でも、先輩たちは大袈裟なことを言いながら反省していた。


その後、本当にその話題には誰も触れなくなったので、潤滑油として俺の手持ちカードを切り、トークショーを始めた。


あの日、小野ちゃんを爆笑させた「サブレ手のひらゲロ事件」は先輩たちにもまだ見せていない切り札だったが、ここで切るのが得策だろう。


最後はサブレが自分の元カノとの嘘か本当かわからん、絶対盛ってるであろうエモい思い出話でマイクを奪って行った。


噂というものは、案外こういうものなのかもしれない。


誰かが強い悪意を持って広めているわけではない。


聞いた。


面白かった。


別の奴に話した。


それだけで勝手に残っていく。


だったら、消える時だって。


「その話、もうよくないっすか」


そのくらいでいいのかもしれない。


少なくとも、その日の小野ちゃんの噂はそこで終わった。


今度こそ……完璧である。


◇


冬が終われば、俺たちは二年生になる。


もうすぐ後輩が入ってくる。


テニスはまだ下手だ。


彼女はいない。


童貞である。


美咲には一週間で振られた。


仲のいい同期を傷つけて、まだ仲直りはできていない。


そして、その事実を知っているサブレという男がいる。


弱みが多すぎる。


こんな人間が、本当に後輩をまとめる側になっていいのか。


分からない。


ただ、一年前の俺は、さっきの話には間違いなく食いついていた。


今日の俺は、やめようと言えた。


たったそれだけだ。


人間的に大きく成長したとか、女の子との接し方が分かるようになったとか、そんな大層な話ではない。


今でも女の子に笑いかけられれば期待する。


二人で飲みに誘われれば期待する。


彼氏がいないと聞けば、かなり期待する。


そこはもう、童貞なので仕方がない。


サブレも童貞あるあるだと言っていた。


それでも。


期待することと、その期待を相手に押しつけることは、どうやら別らしい。


それくらいは分かった。


来年、後輩が入ってくる。


格好いい先輩だと思われたい。


女の子にもモテたい。


彼女も欲しい。


できれば童貞も捨てたい。


その辺は何も変わっていない。


ただ。


後輩が何かやらかした時に、


「お前、それは良くないな」


くらいは言える先輩になりたいと思った。


その後で一緒に笑って。


酒でも飲めれば、それでいい。


リプトンには様々な伝統がある。


『新入生が新歓でゲロを撒き散らす』


『綺麗な先輩にアプローチして砕け散る』


『一度はサークルを辞めようと決意した奴が、翌年幹部になっている』


どれも自然発生したものだ。次に何が伝統になるかなんて、誰にもわからない。


ただ、『「筆おろししてください」と土下座する』伝統を残す必要はないだろう。



※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。また、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。



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