"筆おろし"してください!②
小野ちゃんは待ち合わせ場所にも普通に来た。
分厚い眼鏡。黒髪。小柄。
いつもと変わらずちょっとダサい服装だった。
俺はいつもより少しだけ良い服を着ていた。
似合っていない金髪は、自然と黒く生え変わっていた。
靴だって。
マジックテープの子供用運動靴を卒業し、今はドクターマーチンだ。
女の子と二人で行ってもおかしくない、雰囲気の良いバーだって知っている。
成長した俺なら……イケる。
「カズヤと二人で飲むの初めてだね」
「そうだっけ?」
「そうだよ。いつもサブレとかアフロ先輩とかもいるじゃん」
「まあな」
平静を装った。
二人で飲むの初めて。
小野ちゃんも意識している。
これは大きい。
……イケる。
「「乾杯」」
グラスを合わせる。
小野ちゃんはギムレットを、俺はマティーニを頼んだ。
俺はメニューを見なくてもバーでおしゃれなカクテルを頼めるようになっていた。
確実に成長している。
元々仲の良い二人、自然と会話も弾むものだ。
たくさん話した。
「顔色の悪いサブレがいきなり『両手を差し出せ』と言うから出してみたら、そこにゲロを吐かれたこと」
「アフロさんと並んで立ちションしていたら、飛んできたミツバチがアフロさんの大事なものに止まったこと」
「恵美子さんがまた彼氏に振られてやけ酒をしながら吐いていたこと」
手持ちのネタを全て放出するべくトークショーを繰り広げてやった。
しょーもない話題ばかりだったが、小野ちゃんは笑っていた。
(これは……イケる!)
確信した俺は会話を一歩進めることにした。
「小野ちゃんってさ」
「んー?」
「眼鏡外したら結構可愛いよな」
小野が箸を止めた。
「それ褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
「じゃあ眼鏡してる時は?」
「…………」
「今考えたでしょ」
「いや、可愛いよ」
「遅いよ」
本当にメガネをかけてても普通に可愛いと思う。
だけど照れ臭くて少し黙ったら、小野ちゃんが笑ってくれた。
……イケる。
「彼氏とか作らないの?」
「んー、今はいらないかな」
…イケる!
「モテそうなのにな」
「そうかなぁ」
「男から結構来るだろ?」
一瞬。
本当に一瞬だけ、小野ちゃんの表情が変わった気がした。
「まあ……なくはないけど」
「だよな」
「なんで嬉しそうなの?」
「別に」
俺はテキーラを二杯頼んだ。
塩とレモンを添えられたテキーラが渡されると、一杯は小野ちゃんにあげた。
「こちらのお客様からです」
渾身のギャグだ。
小野ちゃんは笑って受け取ってくれた。
「「乾杯」」
イケる!
俺はさらに褒めた。
少し距離を詰めた。
「小野ちゃんって初体験はいつ?」
「んー、内緒!」
「えー!教えてよ!」
「そんなの内緒だよ!」
「ここだけの話!」
「カズヤはいつなの!」
「俺は泣く子も黙る童貞さ」
子供用運動靴と同時に、ちっぽけなプライドを脱ぎ捨てた俺は童貞ネタで笑いも取ることだってイージーだ。
もっとも、それも今日までの話だがな。
「小野ちゃんは?」
「内緒だよ!」
何度かそれとなく性的な話題へ持っていこうとして、そのたび小野ちゃんはするりと交わしてくる。
ふふ。
可愛いなあ。
……。
可愛いなあ!
実際、後から思えば、小野ちゃんは性的な話題を明確に避けていたと思う。
ただ、俺だけは、お互いに猥談を楽しみながらボルテージを上げていると思っていた。
しかし、こんなに盛り上がっているのに小野ちゃんは、
「そろそろ帰ろうか」
と、帰宅の準備をし始める。
なんでだ!?
俺は焦っていた。
このまま普通に飲んで、普通に解散したら、何も起きない。
それでは困る。何のために二人で飲んだのか。
ここまで気を持たせておいて、帰るだなんてあんまりじゃないか!
…。
小野ちゃんは遊んでるって聞いたぞ。
……。
なんで俺とは遊んでくれないんだ。
………。
そんなのずるい!
焦り、妬み、興奮。
三つの感情に支配された俺は立ち上がった。
「小野ちゃん」
「ん?」
「お願いがある」
「なに?」
おしゃれなバーの床に手をついて頭を下げた。
…イケ!
「お願いします!」
……イケ!
「俺を男にしてください!」
………イケ!!!
「筆おろししてください!」
店内のどこかで皿の割れる音がした。
多分、俺とは関係ない。
そう信じたい。
顔を上げる。
怒ってはいない。
ただ、少し悲しそうなオーラを出している小野ちゃんがそこにはいた。
「カズヤ」
「はい」
「恥ずかしいよ」
「はい」
「座って」
酔いが一気に覚めていくのがわかる。
「一個聞いていい?」
「はい」
「変な噂……聞いた?」
「…………」
何のことか、とは聞けなかった。
それだけで答えになっていたと思う。
小野は少しだけ目を伏せて、それから俺を見た。
「私が本当に誰とでも寝る人だったとして、それってカズヤに何か関係ある?」
「…………」
考えた。関係あるだろうか。
俺は小野ちゃんの彼氏ではない。
元彼でもない。
家族でもない。
小野が誰と付き合おうが、誰と寝ようが、それによって俺の大学生活に何か影響が出るわけでもない。
では、なぜ俺はその噂を聞いて、あれほど興奮したのか。
理由は簡単だった。
自分にも順番が回ってくるかもしれないと思ったからだ。
「……ないです」
「だよね」
小野は怒鳴らなかった。
ただ、少し困ったように笑った。
「私ね、別にそういう噂されること自体はそんな気にしてないんだ」
「……はい」
「誰と付き合ったとか、誰と寝たとか。それが本当か嘘かも含めて、どうでも良い人たちが面白おかしく話していても私には関係ないしね」
「はい」
「だけどさ」
小野は少し言いづらそうにしてから続けた。
「リプトンの人にその噂聞かれて、『じゃあ俺もいけるかも』って思われるのは、結構嫌だな」
胸に刺さった。
まさにそう思ったからだ。
いや。
『イケるかも』どころではない。
最後の最後には「他のやつは良くて俺はダメなんてずるい!」くらいに思ってしまった。
背中に冷たい汗が流れる。
だって、
小野ちゃんは笑ってた。
彼氏はいらないと言ってた。
テキーラだって飲んだ。
これはイケると思った。
そうやって、自分に都合のいいものだけを一個ずつ拾って、最後には床に手をついた。
「人間関係とかそんなに気にしてなかったんだけど、結構私にとってリプトンって大事な場所だからさ」
「はい」
「リプトンの仲間に、噂聞いたからって二人で飲みに誘われて、こういうことされたらさ。私、これからカズヤと普通に会うの、ちょっとやりづらくなるよ」
暗くて顔はよく見えないが、小野ちゃんはちょっと泣きそうになっていたかもしれない。
何も言えなかった。
美咲に『怖かった』と言われた時とは、また違う。
あの時の俺は、恋人になったのだからハグくらいしてもいいと思っていた。
その時にチチを触ったみたいな噂が流れた時だって、小野ちゃんは普通に接してくれていた。
なのに俺は何をやっているんだ。
小野ちゃんが何を考えているのかではなく、他人から聞いた噂を根拠に、
『こいつなら俺とも寝るかもしれない』
と勝手に判断した。
俺は一度、女の子との距離感について失敗した。
少しくらいは学んだつもりだった。
それなのに数ヶ月後には、別の同期を傷つけている。
経験値が入っていない。
いや。
入った経験値をどこかでロストした。
サブレに怒られる。
「今日はここだけの話にしておくから」
小野ちゃんは言った。
「私もこの話広まるの嫌だし」
「……ごめん」
「うん」
「本当にごめん」
「分かったから」
死にたかった。
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。また、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。




