酒を”呑む”と言う奴が嫌いだ④
そんなリプトンのサークル生活にもすっかり慣れた八月のある日。
珍しく一次会が全体的にしっぽりと終わった日のことだ。
「さて、本日はお先に失礼するよ」
と、仲間達に背を向け、帰路に着く僕の肩を叩く小さな手。
「ねえ、キミ」
振り返ると、そこにいたのは小野さんだった。
「気になるお店があるんだけど……二軒目、行かない?」
「二人でですか?」
「いやかな?」
「嫌じゃないです!」
……。
何が起こっているのだ。
小野さんとは練習中や飲み会の最中に多少話すことはあっても、二人きりで飲みに行くような関係ではなかったはずだ。
……まさか、俺に気があるのか!?
「どんなお店ですか?」
「日本酒の美味しいお店」
……。
日本酒。
そういえば、新歓の飲み会で小野さんと日本酒の話をしたことがある。
僕が「日本酒以外ならなんでも好きです」と言ったところ、「それは美味しい日本酒を飲んだことがないだけかもね」と返された。
あれから三ヶ月。
そんな前の会話をまさか覚えていたなんて。
ん?
僕が覚えているのは当然だろう。
可愛い女性との会話は全て覚えているのだからな。
だからこそ、小野さんが覚えていてくれたことを思うと頬が緩む。
彼女にとって僕との会話が『特別』であった証拠と言っても過言ではないからだ。
状況を整理しよう。
現在、僕に彼女はいない。
というか、彼女なんてものはいたことがない。
きっと小野さんもフリーだ。
フリーの男女が二人で二軒目に向かう。
そこに何か不都合があろうか。
いや、ない。
むしろ必然ですらある!
大人数で馬鹿騒ぎするリプトンの飲み会にすっかり魅了されて忘れていた。
浪人中に描いた僕の妄想日記帳と、大学に入ったらやりたいことリストの中にデカデカと書かれていた、
『可愛い先輩とのサシ飲み』
が本日ようやく実現するのだ!
クゥー!
入学してからの四ヶ月間。
おっさんみたいな大学生たちに揉まれながら酒を飲み続けてきた甲斐があったというものだ!
ぐぬぬ。
明日は朝からバイトがあるのだが……。
「もちろん、行きます!」
「そう来なくちゃ」
ふっ。
終電で帰れば明日のバイトには余裕で間に合う。
コンディションが少し悪くなるだけだ。
◇
小野さんに連れられて訪れたのは、カウンターのみ8席程度の小さな海鮮居酒屋だった。
暖簾をくぐると、
「いらっしゃいませ!」
恰幅が良く、清潔感のある大将が笑顔で迎えてくれる。
少し暗めの店内。
カウンターの向こうには、見たことのない日本酒の瓶がずらりと並んでいる。
普段リプトンで使う2,000円飲み放題コースの店とはえらい違いだ。
「こちらへどうぞ」
二人で横並びに座らされる。
……。
『人間が自己の空間として、そこに触れられると不快感を覚える距離。すなわち、パーソナルスペースは正面に広く、横に狭いと言われている。だからこそ、デートの際はテーブル席で正面に座るのではなく、横に座るのがモテの基本だ』
と、『究極のモテ講座』などという、うさんくさい雑誌で読んだことがある。
今日はやはり……。
そういう日なのだろうか。
「キミ、日本酒苦手って言ってたよね」
席につくなり、小野さんが言った。
「覚えてたんですか?」
「覚えてるよ」
「新歓の時ですよ?」
「三ヶ月くらいで人の話忘れないよ」
「まあ、そうですけど」
僕は、新歓で話した女性の先輩との会話を三ヶ月分すべて記憶している自信がある。
しかしこれは僕の記憶力が優れているからではない。
相手が綺麗な女性だからだ。
つまり、小野さんが僕との会話を覚えているということは……。
ヤメダヤメダ!
変な期待をしすぎると、後から恥をかくことになる!
「何ニヤニヤしてるの?」
「してません」
「してないの?」
「ちょっとしてました!」
「ふふっ」
小野さんは特に追及することもなく、メニューへ視線を戻した。
「まあいいや。今日はキミに美味しい日本酒を教えてあげよう」
「お願いします、先輩」
「先輩に任せなさい」
僕より年下の先輩が、満足そうに頷く。
小さい体で先輩ヅラする綺麗な女性が横に座っている。
……。
悪くない。
「お決まりでしょうか?」
「むむむ……あっ!」
メニューを眺めていた小野さんの目が止まった。
「これ!佐賀の『鍋島』!乙なお酒が置いてありますねえ」
「お!日本酒はよく飲まれるんですか!?」
「ふふ。好きなんです。グラスで二人分ください」
「かしこまりました!鍋島二丁入りまーす!」
こんな小洒落た店で平然と大将とやりとりをしている小柄な女性。
……。
エレガントすぎる!
「乙ですね〜って女子大生が言うの初めて聞きました」
「え?乙じゃなかった?」
「乙ですけど!」
「ふふふ」
小野さんがこんなにも嬉しそうな表情をするのを、僕は初めて見たかもしれない。
「お待たせしました!」
頼んだ日本酒はすぐに来た。全然待ってなどいない。
枡の中に置かれたグラスへ、透明な液体が注ぎ込まれていく。
グラスから溢れ出した鍋島は、外側の枡のフチまで表面張力でギリギリ耐えるほど波々と注がれた。
……。
僕にとっての日本酒とは、「2,000円飲み放題」のメニューにある、二合徳利に入った謎の液体のことを指していた。
故に、この美しい提供スタイルには少し緊張してしまう。
少しでもグラスを動かせば溢れてしまいそうだ。
どうやって飲むのが正解なんだろう——と思案する間もなく、小野さんはおもむろに顔をグラスへ近づけ、そのままスッと口をつけた。
「こうやって迎えにいけば、こぼれないよ。キミもやってみて」
悪戯っぽく笑う小野さん。
(あぁ、このグラスになりたい)
「飲まないの?」
「飲みます!」
言われるがまま、僕もグラスへ顔を近づける。
縁に口をつけ、少しだけ啜る。
「……お」
「おいしい?」
思っていたよりずっと軽い。
鼻につくようなアルコール臭もない。
口の中に残る甘みも、今まで僕が飲んできた日本酒とはまるで違う。
「美味い」
「でしょ」
「なんか、フルーティな感じしますね」
「そう。鍋島は香りが華やかで、甘みもちゃんとあるんだけど、酸味もあるからベタッと甘くならないの。後味も綺麗だからスッキリ飲めるんだよ」
「へえ……」
「日本酒って辛いとか甘いとかだけじゃないんだよ。こういう果物っぽい香りがするのもあるの」
「いやぁ、勉強になります!」
「うちのバカ達は『ガハハ!飲みやすいものが飲みたければ水を飲めば良かろう!』とか言って、純米大吟醸飲ませても『美味い!』『もう一杯!』しか言わないからね」
「それは味わってるんですか?」
「本人たちは味わってるつもりなんじゃないかな?」
「誰の話です?」
「当ててみて」
「サブレさん?」
「ヤツは出会って三ヶ月の子にもバカって思われてるのね」
小野さんは普段は物静かな人なのに、日本酒の話になるとやたら嬉しそうだ。
新歓の時に話した僕の好みを三ヶ月も覚えていて、二人きりで日本酒の店に誘い、僕に合いそうな酒を選んでくれる。
楽しい……!
僕に好意があるであろう可愛い先輩とカウンターに並んで日本酒をちびちび飲みながら「美味しいねー!うふふ」だなんて!
楽しくないわけがなかろう!
くそー!
小野さんめ!
可愛いじゃないか!
もういっそ僕の方から……。
いや。
まだだ。
まだ慌てるような時間ではない。
先走ってよいことなど一つもない!
お、お、おおお落ち着いて、この時間を楽しもうじゃないか。
「次、獺祭いこっか」
僕の心の中など全く見えていない小野さんは平常運転だ。
「行きます」
僕だって平常運転だ。
◇
鍋島。
獺祭。
十四代。
久保田。
黒龍。
紀土。
銘柄が変わるたびに、同じ日本酒とは思えないほど味も変わる。
日本酒なんて、これまで僕にとっては一升瓶から徳利に移されて出てくる、罰ゲーム用の高濃度アルコールくらいの認識だった。
それがどうだ。
刺身を食べたあとに飲む。
少しずつ温度が変わっていくのを待って、また飲む。
同じ酒なのに、そのたびに少しずつ味が違う。
「これ、なんですか?」
「梅水晶」
「梅?」
「サメの軟骨」
「サメ?」
「いいから食べてみな」
言われるがまま箸を伸ばす。
コリコリとした軟骨の食感に、梅肉の酸味。
そのまま日本酒を口に含む。
「……あ、うま」
「でしょ?」
「初めて食べました」
「普段は『枝豆』と『たこわさ』とかだからね」
「あぁ」
「日本酒の店には割と置いてあるんだけど、おいしいよね」
小野さんが嬉しそうに笑う。
「日本酒って面白いですね」
「でしょ?」
「なんか、もっと雑に飲むものだと思ってました」
「君が雑に飲むのは日本酒だけじゃないんじゃないかな?」
「おっしゃる通りでございます」
「ふふ。お酒はちゃんと可愛がってあげないとねえ」
そう言いながら、小野さんは大事そうにグラスを両手で持っている。
酒を可愛がる。
よく分からない表現だ。
しかし、目の前の小柄な女性が嬉しそうに日本酒を飲んでいる姿を見ていると、なんとなく分かるような気もしてくる。
僕の知らない銘柄を選び、
僕の知らない飲み方を教え、
僕の知らないつまみを食わせる。
そのたびに僕が「美味い」と言うと、小野さんは自分が褒められたかのように嬉しそうな顔をした。
どうやらこの人は、人に酒を飲ませるのが好きらしい。
「小野さんって、結構飲みますよね」
「日本酒はね」
「ビールは?」
「うーん、ビールとかだとすぐにお腹がタプタプになっちゃって、あんまり量飲めないんだよね」
「あー」
「でもさ」
小野さんはグラスを傾けながら、少し離れたところを見るような目をした。
「キミたちが楽しそうにバカやってるのを見ながら飲むお酒……好きだよ」
…………好きだよ。
……好きだよ。
好きだよ。
……。
いやいや、流石に「好きだよ」の目的語が僕では無いことはわかっている。
ただ、彼女の口から発された「好き」の言葉を反芻していただけだ。
別に勘違いなどしていない。
「じゃあ先輩の飲めない分は、僕が責任を持って飲んで差し上げます!任せてください!」
「ふふっ。頼もしい後輩だね」
小野さんはクスクスと笑った。
そして。
何の前触れもなく、すっと手が伸びてきた。
「ご褒美に『よしよし』してあげよう」
僕の頭に、小さな手が乗る。
「私の“呑んべえ”な後輩くん。頼りにしてるぞ」
……。
…………。
急な肌の接触に、脳の処理が止まった。
頭を撫でられている。
女性に。
小野さんに。
僕より年下の先輩に。
駄目だ。
これは駄目だ。
酒の酔いとは明らかに種類の違う熱が、一気に顔面へ集まってくる。
(ああぁ……あぁあああ……!)
絶対に今、ニヤついている。
自分では見えないが分かる。
鼻の下も伸びている。
顔面がデロデロに溶けている。
このままでは、二浪して手に入れた二十一歳男性としての尊厳が完全に失われる。
「あ、あのっ!す、すみません!ちょっとお手洗い借りてきます!!」
「ふふ。ごゆっくりー」
喉の奥からひっくり返った声を出し、イスを盛大にガタつかせながら逃げるように立ち上がった。
横目で見えた小野さんは通常運転だ。
くそおおおおおお!
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。また、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。




