酒を”呑む”と言う奴が嫌いだ⑤
僕は席から立ち上がるとすぐに、便所へ駆け込み鍵を閉めた。
「…………危なかった」
あと二、三回往復撫でられていたら何かが出るところだった。
何が出るのかは考えないことにする。
深呼吸して覗いた手洗い場の鏡には、
服を着たタコの赤ちゃんのような男が写っていた。
……。
誰だお前は!
僕か!?
僕はこんなタコのような顔をして小野さんの横に座っていたのか?
いや待て、横並びのカウンター席だ。
小野さんからの見え方はこう……。
おいおいおいおい。
めちゃくちゃ口がとんがってるじゃないか!
クール系美女の隣にタコ……。
……。
これは僕が悪いのか?
冷静に考えてみろ。
物静かで、小柄で、眼鏡をかけた可愛い女性の先輩と二人きりで日本酒を飲み、その女性が三ヶ月前の会話を覚えていて、自分に合いそうな酒を次々と選んでくれた挙句、
「ご褒美に『よしよし』してあげよう」
だぞ!?
お前なら耐えられるのか!?
無理に決まっている!
この状態で平静を保てる男がいるなら連れてきてくれ!
……。
まあいい。
冷水をバシャバシャと顔に叩きつける。
深呼吸を三回。
よしっ。
落ち着いた。
顔の赤みは……酒のせいにすればいい。
僕はもう酔っ払っているんだ。
あれだけの日本酒を飲めばみんなこうなるさ。
小野さんだって顔は少し赤くなっていた気がするぞ。
僕はただ、僕を可愛がってくれている先輩と日本酒を飲んでいるだけだ。
そうだ。
冷静になれ。
僕は理性的な人間だ。
いつだってそうだったろう。
な?
◇
席へ戻ってからは、他愛もない会話で盛り上がった。
「高校時代はずっと勉強ばっかやってて……」
僕の高校時代の話。
「サブカルチャー論ってのがあってね……」
小野さんの文学部の話。
「小野さん、バックは上手いですよね」
「バックは?」
「いや……、バックでストレート打つ時のフォームめっちゃ好きっす」
「バカ曰く『才能がある』らしいよ」
テニスの話。
「1年の頃のカズヤは金髪で大学デビュー狙ってたんだけど、靴は子供用の運動靴だったんだよね」
「コーナーで差をつけるあれっすか?」
「そう、それ」
サークルの馬鹿どもの話。
しかし、楽しい時間は永遠に続くわけではないのだ。
「宴もたけなわだね」
「そうですね……名残惜しいです」
「時間とは無慈悲だね」
気づけば、そろそろ会計という時間になっていた。
自分の分を払おうと財布を取り出すと、小野さんが手で制した。
「いいよ。今日は私が出す」
「いやいや、ここは僕に出させてください」
「高いよ?」
「任せてください。漢なので!」
小野さんからレシートを受け取る。
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お会計
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お通し 800円
刺身盛り合わせ 1,800円
梅水晶 650円
だし巻き玉子 750円
漬物盛り合わせ 550円
鍋島 1,200円
獺祭 磨き二割三分 2,000円
久保田 萬寿 1,800円
十四代 本丸 2,200円
黒龍 1,400円
紀土 1,100円
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小計 14,250円
消費税 1,425円
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合計 15,675円
──────────────
「高っ!獺祭って一合で二千円もするんですね!?」
「ふふふ。大人の味だね」
「割り勘で……いいっすか?」
想像していなかった金額を前に、僕の男気は一瞬で半額になった。
そんな僕の手から、小野さんがレシートをひったくる。
「今日は先輩の奢り」
小野さんがニッと笑う。
「でも、高いっすよ」
「私が誘ったんだしね。最初から予算もわかってたし」
「でも……」
「ふふ。可愛い後輩を連れて来ようと思って春先にいっぱいバイトしたの」
「小野さん……」
「毎回は無理だけどね。来年になったら、今度はキミが次の後輩を日本酒の世界に引き込むんだよ」
「……ありがとうございます!ごちになります!」
……。
カッコよすぎるだろ、小野さん。
身長百五十センチほどの小柄な年下女性に全額奢られる一般男性。
客観的に見れば、少々情けない構図かもしれない。
しかし、年齢なんてただの数字である。
高校卒業後の二年間を勉強だけに捧げてきた大学一年生なんて、彼女の前ではただのクソガキに過ぎない。
ここは素直に先輩の顔を立てるべきだろう。
「ごちそうさまです」
「うむ」
満足そうである。
……可愛い。
いかん。
また始まった。
名残惜しいが、そろそろ終電の時間も近い。
いくら後輩の立場とはいえ、僕も男である。
せめて彼女を無事に駅まで送り届ける程度の義務は果たさなければならない。
僕は密かに涙を呑みながら切り出した。
「……そろそろ、いい時間ですね」
「ほんとだねー」
小野さんが時計を見る。
終わった。
楽しかった。
楽しいに決まっている。
浪人時代に描いた夢が叶ったのだからな。
だからこそ、ここで綺麗に終わらせるのが大人というものだ。
スマホを見ながら歩いていた小野さんが顔を上げる。
「ねえ」
「はい」
「もう一軒行っちゃう?」
……。
…………。
このメス、まさか抱かれたがっているのか!?
ここまでの甘い会話はすべて伏線だったというのか!?
流石にもう一軒行ったら確実に終電はなくなるぞ!
おいおいおいおい、どういうことだ!
とんだどすけべ小悪魔じゃないか!
いや待て。
落ち着け。
トイレで確認したはずだ。
『僕は理性的な人間である』
と……。
ここで都合のいい解釈をしてはいけな———。
「……行きます!」
勝手に声が出ていた。
明日のバイト?
知らん!
ここで断れる男が、この地球上に存在するだろうか。
いるわけがなかろう。
据え膳とは食うために存在するのだ!
……。
大学生ってすごい。
こうして今日もまた一人、この世から童貞が減っていく。
僕の『初めて』がこんなにも素敵な女性だなんて、なんだか誇らしい気持ちで胸がいっぱいだ。
酔いが回り、まともに真っ直ぐ歩けない僕を、小野さんが肩を貸して支えてくれる。
誰かに支えられながら歩くこと自体は珍しくない。
しかし、自分より二十センチ以上も小柄な女性に支えられるのは初めての経験だった。
ちくしょう。
すごく良い匂いがする。
髪が。
肩が。
柔らかい。
僕はこれからどうなるのだろう。
いや。
どうなるかなんて分かっている。
分かっているが、具体的な手順が分からない。
こんなに酔っていて、僕の”ヒロくん”は機能するのだろうか。
……。
……なるほど。
心配はなさそうだ。
童貞というのも悪い事ばかりではないのだな。
向こうは経験があるのだろうか。
いや、そんなことを女性に聞くのは失礼だ。
小野さんみたいな大人しい人なら、もしかすると——
いや。
やめよう。
余計な詮索は品がない。
大事なのは過去ではない。
これから二人で築いていく未来である。
……。
僕と小野さんの未来。
……。
『ヒロくん子供の名前はどうする?』
『男なら"一"と書いて”はじめ"で、女なら"I"と書いて"あい"なんてのはどうだろうか。名前は人生で一番多く書く文字になりがちだから、画数は少ければ少ないほど良いんじゃ無いかな』
『ふふ。習字の時にバランスがとりにくそうだね』
『こりゃあ一本っ取られたなあ』
『ふふふ』
……。
そんな壮大な妄想を繰り広げているうちに、小野さんが店の前で立ち止まった。
「着いたよ」
「……はい」
覚悟を決める。
僕の人生における重要な一夜が、今始まろうとしている。
大人の扉は開かれた!
<おおおおお!ヒロ来たぞおおおお!!
<遅えぞヒロ!
<本番はここからだぞー!
聞き慣れたファック野郎どもの、野太い大歓声。
……。
なぜいる。
店の奥では、巨大なアフロを中心に、サブレさん、美咲さん、カズヤさん、タカマサさん、恵美子さん。そして同期の蓮までが当然のように卓を囲んでいた。
「ヒロ!小野さんと二人で消えるとかやるじゃん!」
「蓮、お前あとで覚えてろよ」
「グハハハハハ!まあいいじゃねえか!若者同士、仲良きことは美しきかな!」
「アフロも若者でしょ」
恵美子さんの冷静なツッコミが飛ぶ。
「小野ちゃん、ヒロめちゃくちゃ酔ってない?」
「日本酒が気に入ったみたいで、美味しそうに飲んでましたよ」
「俺も連れてってくださいよ!ヒロだけずるいっす!」
「蓮は新歓荒らしの禊が済んでからだねー」
「それを言われてしまうとキツイです!」
「まあまあ、ヒロ。水飲め水」
大学デビューのカズヤさんがグラスを差し出してくる。
「ありがとうございます。やっぱりカズヤさんだけは信用できます」
「で、小野ちゃんとはどこまでいったの?」
前言撤回。
こいつも敵だ。
「土下座はされてないよ」
小野さんから不思議な回答が飛んできた。
「土下座?」
「昔、カズヤがね———」
「ははは!ヒロも漢だな。いい顔してるぞ」
小野さんが何か話そうとしているのを遮り、バカ代表のサブレさんが笑う。
「してません!」
「してるしてる。童貞みたいな顔してる」
「童貞ですよ!」
「見ればわかる」
「なんで『見ればわかる』んですか!?」
「ガハハハ!」
バーバリアンの様なタカマサさんが笑いながらグラスを傾ける。
「男は黙って飲むもんだ!」
まともな人間はいないらしい。
「ふむ。ならばチョモランマだな。小野ちゃん。準備をしてくれるか?」
サブレさんが僕の隣へ座った。
小野さんは嬉しそうに、二つの中ジョッキへビールを注ぐ。
当然、グラスの縁では止まらない。
泡がこんもりと盛り上がり、今にも雪崩を起こしそうな山を作る。
リプトン名物。
チョモランマ。
「……マジですか」
「なんだ。小野ちゃんに格好いいところ見せなくていいのか?」
「やりましょう」
即答だった。
「頑張ってー!」
小野さんの声が聞こえた。
まかせてください。
男には、退けない戦いというものがある。
「チョモランマ!」
「チョモランマ!」
ジョッキをぶつけ、そのまま一気に傾ける。
冷たいビールが喉を流れ落ちていく。
横目で見ると、サブレさんは涼しい顔で飲んでいた。
負けてたまるか。
僕も残りを一気に流し込み、空になったジョッキを卓上へ叩きつける。
「っぷはぁ!うめえ!」
「おおおおおお!」
「さすがヒロ!漢だなあ!」
「もう一杯いけるだろ!」
「あったりまえじゃねえっすか!」
歓声の向こうで、美咲さんとおしゃべりしている小野さんが、楽しそうにこちらを見ていた。
サブレさんに負けじとチョモランマを飲み干した勇敢な後輩の姿を、あれだけ楽しそうに眺めているのだ。
今夜の僕は、なかなか格好いい。
そこから先の記憶は、あまりない。
アフロ先輩が何か叫んでいた。
蓮と肩を組んだ。
カズヤさんに水を飲まされた。
恵美子さんに怒られた。
タカマサさんはずっと笑っていた。
美咲さんは可愛かった。
サブレさんとは、なぜかもう一度チョモランマをした気がする。
小野さんも、ずっと楽しそうだった。
僕も楽しかった。
馬鹿みたいに。
ここで僕の脳はメモリー機能を失った。
◇◇◇
小鳥の囀りが聞こえる。
……。
朝じゃん……。
う、脳が、い、い、いてぇ。
完全な二日酔いだ。
ここは、どこだ……?
【 久里浜 】
久里浜?
横須賀線の終点じゃないか。
スマホと財布は……。
無事だ。
時間は……。
06:53
あー。
今来た電車に乗れば……。
バイト。
間に合っちゃうなこれ。
くっ。
乗るかぁ。
……。
誰も乗っていない東京方面行きの電車に腰を下ろす。
昨日は楽しかったなぁ。
ところどころ記憶が無いが……。
楽しかったことだけは覚えている。
飲み会なんてこんなもんだろう。
昨晩の僕は、自分が童貞を卒業するものだと思っていた。
小野さんとの間にできるはずの子供の名前まで考えていた。
その結果が、朝七時、久里浜だ。
ふっ。
大人の扉は、随分遠いところに繋がっていたらしい。
頭が回らない。
とりあえず、今は考えないことにした。
人間、考えたところでどうにもならないこともある。
ん。
小野さんから連絡が来てる。
『ちゃんと帰れた?
今日は楽しかったね。
また、呑みに行こう!』
送られてきたのは、午前一時過ぎだった。
返信は……。
後でいっか。
品川乗り換えまでは座っていられる。
……。
小野さん、心配してくれていたのか。
やっぱり今返信しとこう。
『今、久里浜で目が覚めました(笑)
僕も昨日はすごく楽しかったです。
今度は僕がご馳走しますね 』
っと。
無事であるという報告に加え、笑いもとりつつ、次に繋げる。
完璧な返信だ。
『また、呑みに行こうね』
……。
良い店探しておかないとなあ。
ん、蓮からのからだ。
『チェリー!生きてるかー!
今日は18時に馬場駅前な!
アフロ先輩と師匠と男呑みしようぜ!』
……。
スマホが手から滑り落ちた。
ふっ。
まったく。
あーあ。
だから僕は、酒を“呑む”って言う奴が嫌いなんだよ!
窓の外を見る。
朝日に照らされた街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。
遠くには、青い空がどこまでも広がっていた。
うん。
快晴だ。
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。また、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。




