"無駄なイケメン"め②
……。
「小野ちゃんじゃん!」
「久しぶりー!」
「もう体調大丈夫?」
コートへ着いて最初に感じたのは、安心より拍子抜けだった。
もっと気まずいものを想像していた。
私が現れた瞬間に会話が一度途切れるとか、誰かがアフロ先輩を見て笑いを堪えるとか、そういう小さな間くらいは発生すると思っていた。
何もない。
みんな普通に挨拶をして、普通に準備をしている。
私が二週間かけて育てた羞恥心は、どうやら私の頭の中でしか成長していなかったらしい。
「あの、この間は……すみませんでした」
アフロ先輩には謝ったが、他の方々も私のゲロを片付けてくれたらしい。
一度くらいは謝っておくべきだろう。
私が頭を下げると、近くにいたタカマサ先輩が、
「ああ、ゲロ?」
と言った。
もう少し婉曲な表現はなかったのだろうか。
「気にしなくていいって。新歓なんてそんなもんだから」
「俺なんか去年、吐いて脱いでションベン漏らしたし」
アフロ先輩が胸を張る。
「そうなんですか?」
「でも今年は漏らしてない」
「成長したんですね」
周囲から笑い声が上がった。
私も少し笑った。
どうやら本当に、誰も気にしていないらしい。
その時、黄色い頭が近づいてきた。
「小野ちゃん、気にしすぎなんだって!」
カズヤ。
お前は少しは気にしたほうがいいんじゃないか?
私のお腹がタプタプした原因の一部にお前は確実に絡んでいるはずだぞ。
「こいつなんか翌朝、植え込みの中、ゲロまみれでネズミの餌になりかけてたんだぜ!」
指差された先にいたのはサブレだった。
ウェーブのかかった黒い髪、左耳についた三連リングのピアスがジャラジャラと音を立てている。
細身ではあるが服を着てても運動能力の高さが窺えるボディライン。
そして、悔しいことに何度見てもやはり無駄に顔が良い。
無駄に綺麗な顔をわざわざ崩しながら、
「あぁ。家に帰ってお母さんにめっちゃ怒られたぜ。『二十二歳にもなってなにやってるの!?』って」
とお母さんの真似をした。
表情筋がすごい柔らかいのか、お母さんのモノマネがやたらとうまい。
本当にこんな顔をしたお母さんなのだろう。
「……その顔でお母さんに怒られてるの?」
思わず口から出た。
「ふっ。いくら俺が男前とはいえ、みんなと同じように親から生まれてきてるからな」
『チャラい顔のせいで何もしていないのにオタサーから出禁を食らうような二十二歳の男』が、ゲロまみれで実家へ帰り、母親の前で叱られている。
……。
想像すると可笑しかった。
「まあ、二十二歳の一年生がゲロまみれで帰ってきたわけだからな。そりゃあ甘んじて尻を叩かれるさ。ちなみに親父はゲラゲラ笑っていた」
「サブレはお父さん似なんだね」
「そうかもしれない。親父の面白エピソードはたくさんあるが、練習の後に話そう」
「うん、着替えてくる」
更衣室へ向かう。
笑ったのは久しぶりだった。
もちろん、二週間ずっと笑っていなかったという意味ではない。
ただ、リプトンのことを考えた時に生じる感情は、ここしばらく羞恥と後悔ばかりだった。
そこに初めて、別のものが混ざった。
二十二歳にもなって母親に怒られた男には、少しくらい感謝してもいいかもしれない。
更衣室で鞄を開ける。
二週間近く、大学と家の間を往復していた運動着が入っている。
ようやく本来の用途に使える。
◇
久しぶりのテニスは、普通に楽しかった。
初日にアフロ先輩の特訓を受けたにも関わらず、相変わらず私は下手だった。
打ちやすい位置へ出してもらった球を空振りし、どうにか当ててもフレームに引っかかる。
頭ではもう少しまともに身体を動かしているつもりなのだが、現実の私はどうやらそうでもないらしい。
「小野ちゃん、もうちょい前だな」
向こうからサブレが言った。
「前?」
「打つ位置。ボール落ちてから待ちすぎてる」
言われた通り、一歩前へ出る。
次の球。
空振った。
「惜しい」
「今のどこが?」
「さっきよりタイミング合ってたよ」
「当たってないけど」
「次は当たるさ」
どこからその確信が出てくるのだろう。
そういえば、アフロ先輩も似たようなことを言っていた。
初めて練習に参加した日、私は何度もボールを空振りした。
そのたびに「惜しい」「今のはもっと惜しかった」と褒められ、ようやく一球ラケットに当てただけで、まるで試合に勝ったかのように喜ばれた。
サブレも同じである。
顔のいい男というのは、みんなこうなのだろうか。
もちろん、そんなわけはない。
容姿と他人への肯定的な態度に直接の因果関係があるとは思えない。
ただ、二人とも自分に対する肯定感が妙に高い。
自分が失敗しても、それほど深刻に捉えない。だから他人の失敗にも寛容でいられるのかもしれない。
私など、ボールを空振りするたびに、なぜこんな簡単なこともできないのだろう、と考えてしまう。
彼らはたぶん、そうではない。
できなかったら、もう一回やればいい。
その程度なのだろう。
少し羨ましい。
「小野ちゃん」
「なに?」
「また考え事をしているだろう」
「してない」
「今、ボールを三個見送ったぞ」
「……してた」
サブレが笑った。
「とりあえず打とう!考えていても何も始まらない!」
「まずは打ち方をちゃんと覚えなくていいの?」
「大事なのは打ちやすいスウィングを体で覚えることだ」
なるほど。
次の球にはラケットが当たった。
ネットを越えて、サブレのいる側へ落ちる。
「ほらな」
サブレが嬉しそうに言った。
なぜあなたが嬉しそうなのだろう。
そう思ったが、悪い気はしなかった。
何球か続けるうちに、少しずつ当たるようになった。
「小野ちゃん、バックの方が上手いな」
「そう?」
「しっかりと体が閉じているから安定するんだな」
「へぇ」
「これが意外と難しいんだ」
「私でもできるのに?」
「センスが良いみたいだな」
褒められた。
私に運動のセンスがあるわけがなかろう。
でもまぁ、そういうことにしておこう。
少し離れたコートでは、アフロ先輩が美咲ちゃんに大声で何かを教えている。
ボールが入るたびに本人以上に喜んでいた。
やっぱり似ている。
二人とも、他人ができなかったことより、できた瞬間の方をよく見ている。
そういう人間は得だと思う。
本人も楽しいだろうし、一緒にいる人間もあまり疲れない。
サブレがこちらを見る。
「さぁ。体が忘れないうちにもう一球いくぞ」
「はーい」
私はラケットを構えた。
さっきより少しだけ、身体に力が入らなかった。
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。また、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。




