第9話 二百七十六歩
王宮の稽古場は、リンダール家の広間の四倍ほどございました。
鏡は置かれておりません。クヌート様のお考えでは、鏡を見て踊る者は相手を見なくなるのだそうでございます。
ご令嬢は四人おいででした。
いちばん年上の方が十七、いちばん下が十四。皆さま背筋がまっすぐで、顎の位置が揃っておいでです。三十年ぶんの教えが、そのまま四人ぶん並んでおりました。
「リンダール嬢が、皆さんの歩幅を測りたいとのことです」
クヌート様が短くそう仰り、壁際の椅子に腰を下ろされました。腕を組んでおいででございます。
「はじめまして。マチルデ・フォン・リンダールと申します」
四人が膝を折られました。それから、いちばん下のお嬢様が小さな声で仰いました。
「あの……歩幅を測ると、上手になりますの」
「いいえ」
四人の顔が上がりました。
「測っても上手にはなりません。ご自分の一歩を知るだけでございます」
紐を出し、床に置きました。
「では、そちらから。いつもどおりに三歩」
十七のお嬢様が歩かれました。紐を当て、白墨で印をつけます。
「わたくしの一歩より、指五本ぶん広うございますね」
「五本」
「はい。四人のなかではいちばん広くていらっしゃいます」
次の方、その次の方と続けました。
四人ぶんの印が、床に並びます。わたくしの一歩を元にして、五本、四本、四本、三本。いずれもわたくしより広うございました。
「では、皆さま。ご自分の印の上に立ってくださいませ」
四人が並ばれました。印は等しくございません。並んだ足の先が、ばらばらの位置にございます。
「クヌート様」
「なんです」
「一曲は、何歩でございましょうか」
「何歩、とは」
「先ほど楽団の方に伺って参りました。本日の曲は三拍子、九十二小節でございます。一小節に三歩でしたら、二百七十六歩でございます」
クヌート様が腕を解かれました。
「……それが何か」
「二百七十六歩のあいだ、いちばん広い方といちばん狭い方は、指二本ぶんずつ差が出ます。二百七十六歩ぶん重ねますと、五百五十二本ぶんでございます」
「そんな計算に意味はない」
「はい。踊りとしては意味がございません。ですが、床の上でだけは意味が出ます」
わたくしは白墨を持ち、床に長い線を一本引きました。
「では、いちばん広い方といちばん下のお嬢様。この線に沿って、並んで八歩だけ歩いてくださいませ」
お二人が歩かれました。四歩目で肩が離れ、六歩目で線を挟んで開き、八歩目には腕一本ぶんの隙間ができておりました。
「まあ」
十七のお嬢様が声を上げられます。
「わたくし、ずれておりますの」
「いいえ。お二人ともまっすぐお歩きです。歩幅が違うだけでございます」
「けれど、舞踏会では並んで歩きますわ」
「ええ。ですから、広い方が狭める。それだけでございます」
いちばん下のお嬢様が、印のあたりをじっと見ておられました。
「……あの。わたくし、いつも遅れると叱られますの」
「はい」
「遅れているのではなくて、狭いだけでございますか」
わたくしは膝を折り、そのお嬢様と目の高さを合わせました。
「狭いだけでございます。狭い足には狭い足の回り方がございますから、それをお使いになればよろしゅうございます」
お嬢様の目が潤みました。慌てて背筋を伸ばされます。三十年ぶんの教えが、こういうところで出るのでございました。
壁際で、椅子が鳴りました。
クヌート様が立っておられます。
「リンダール嬢」
「はい」
「あなたは、私の三十年が間違っていたと仰りたいのですかな」
「いいえ」
「では何です」
「背筋も顎も、正しゅうございます。ただ、足の話がひとつもございませんでした。それだけでございます」
クヌート様のお顔から、色が引きました。
三十年、というのは長うございます。長いぶん、たった一行の抜けを埋めるのは難しいことでございました。
「……結構」
クヌート様は、そう仰いました。
「結構です。では、公の場でやっていただきましょう」
「公の場」
「来月、王宮で若い方々の披露がございます。十三から十七の方が順に踊る、毎年の会です」
クヌート様は四人のご令嬢のほうへ一度目をやり、それからわたくしへ戻されました。
「あなたの生徒をひとりお出しなさい。私の生徒も出します。数で教えた者と、姿勢で教えた者を、同じ床に並べればよろしい」
「クヌート様。あの方たちは、勝ち負けのために踊るのではございません」
「勝ち負けとは申しておりません。並べるだけです」
並べる、というのが、この宮廷でいちばん残酷な言葉であることを、この方はよくご存じでございました。
稽古場を出ますと、廊下の窓辺に、緑の服の小さな影が座っておりました。
オルガ様でございます。膝の上に帽子を置き、足をぶらぶらさせておいででした。
「オルガ様。どうしてこちらに」
「お待ちしておりましたの。おうちで待つより早うございますもの」
「中の話が聞こえておりましたか」
「扉が薄うございますわね、王宮のくせに」
わたくしは隣に腰を下ろしました。
窓の外はもう暗くなりかけております。
「リンダール様。誰をお出しになりますの」
「まだ決めておりません」
「エルミナ様は駄目ですわ。あの方は十八ですもの、若い方の披露には出られません」
「よくご存じですね」
「調べましたもの」
オルガ様は帽子の縁を指でなぞっておられました。
「わたくしが出ますわ」
「オルガ様」
「わたくししかおりませんでしょう。生徒はふたりで、片方は年が合わない。算術でございますわ」
わたくしは、すぐには答えませんでした。
この方は先月、七度目で足が止まった方でございます。人前で足が動かなくなる方でございます。その方を、皆さまの並ぶ床へお出しすることになります。
断るのは簡単でございました。まだ早うございます、と申し上げれば済みます。
「オルガ様。人が大勢おります」
「存じております」
「止まるかもしれません」
「止まりますわ、きっと」
あっさりと仰いました。
「止まりますけれど、姉が転んだのは、止まったあとで動こうとしたからでございます。わたくし、止まったら止まったままでおりますわ。転ぶよりましですもの」
わたくしは窓のほうを見ました。
この方の言い方には、いつも算術がございます。損と得を並べて、得のほうを選ばれる。十三で身につけるようなものではございません。おそらく、姉上のことがあってから身につけられたのでございましょう。
「わかりました。ではお出しいたします」
「よろしいんですの」
「ええ。ただし、条件がひとつございます」
「またそれですのね」
「止まった時に、わたくしが数えます。お許しくださいますか」
オルガ様は帽子をかぶり、それからわたくしを見上げられました。
「……声に出して、ですの」
「はい。壁際から、声に出して」
「皆さま、笑いますわ」
「笑うでしょうね」
しばらく黙ってから、オルガ様は帽子のつばを下げて仰いました。
「笑わせておけばよろしいですわ。わたくし、笑い声はもう覚えておりますもの」
二百七十六歩は、九十二小節に三拍子を掛けただけの数でございます。掛けただけの数が人を黙らせることがあるのは、たいてい、それまで誰も掛けてみなかったからでございました。
いちばん下のお嬢様の「遅れているのではなくて、狭いだけでございますか」という一行のために、この回はございます。
並べるだけです、とクヌート様は仰いました。この宮廷でいちばん残酷な言葉でございます。人前で足の止まる十三歳が、その床へ出て参ります。




