第10話 公開の試し
若い方々の披露は、毎年、王宮の西の広間で行われます。
十三から十七の方が順にお踊りになり、それを親類とご家族が見物なさる、身内の集まりのような会でございました。今年は、いつもより人が多うございます。
「教師長と、あのリンダール嬢が並べるそうよ」
「まあ。どちらが勝つのかしら」
「勝ち負けではないと仰っていたそうですけれど」
「そう仰る時は、たいてい勝ち負けでございますわ」
オルガ様は控えの間で、椅子に浅く腰かけておいででした。
手袋はお持ちになっておりません。握ってしまうから置いてきたのだそうでございます。
「リンダール様」
「はい」
「靴の底に白墨を塗ってもよろしいですの」
「なぜ」
「線が引けますでしょう。歩いたところに」
「引けますけれど、掃除をなさる方が困ります」
「……そうですわね」
それきり、お二人とも何も申しませんでした。控えの間の窓から、楽団の音合わせが聞こえて参ります。
「リンダール様」
「はい」
「もし、わたくしが止まりましたら」
「数えます」
「もし、数えても動けませんでしたら」
わたくしは、そのご質問を考えました。適当なことを申し上げても、この方は見抜かれます。
「その時は、迎えに参ります」
「迎えに」
「床の真ん中まで参りまして、お手を引いて下がります」
「……皆さまの前で」
「はい。皆さまの前で」
オルガ様は目を丸くされ、それから怒った顔になられました。
「そんなみっともないこと、させませんわ」
「では、動いてくださいませ」
「動きます。動きますとも」
控えの間の扉が開き、係の方が名を呼ばれました。
オルガ様は椅子から立ち上がり、裾を直し、それから二度、深く息をなさいました。息を吸う位置を決めるのは、この方がご自分で覚えられたことでございます。
クヌート様の生徒がたが先にお出になりました。
四人とも、たいへんお上手でございました。背筋がまっすぐで、顎の位置が揃い、腕の高さが一分と違いません。並ぶと、絵のようでございました。
いちばん下の十四のお嬢様だけ、二度ほど遅れておいでです。それでも、崩れることなく最後まで通されました。歩幅を狭いままお使いになっていたからでございます。
拍手のなかで、そのお嬢様がこちらをちらりとご覧になりました。
わたくしは小さくうなずきました。それだけでございます。
オルガ様の番になりました。
床の中央へお出になり、お相手の少年と向かい合われます。
楽団が構えます。アンゼルム様が弓を上げ、こちらを一度ご覧になりました。
一小節目。
オルガ様の足が、動きませんでした。
二小節目。
まだ動きません。
広間がざわめきました。お相手の少年が困った顔でオルガ様を見ておられます。楽団は続けております。三小節目、四小節目と、曲だけが進んで参ります。
どこかで、笑い声が起きかけました。
わたくしは壁際から一歩前へ出て、口を開きました。
「一。二。三。四」
声は思ったより通りました。広間の顔が、いっせいにこちらを向きます。笑いかけた口が、途中で止まりました。
「一。二。三。四」
オルガ様の靴の先が、床から離れました。
一歩。二歩。狭い歩幅のまま、点があった場所を渡っていかれます。線はもうございません。床には何も引いてございません。それでも、この方の足は、あの日の四つの点をまだ覚えておいででした。
「一。二。三。四」
三度目の向き変えで、お相手の少年が歩幅を広げようとなさいました。
オルガ様が、ご自分から半分だけ内へ入られました。
わたくしは声を出しておりません。あれは、わたくしが教えていない動きでございます。
そこから先は、数えるのをやめました。
九十二小節。二百七十六歩。
最後の一歩まで、オルガ様は止まりませんでした。
曲が終わりました。
しばらく、誰も手を叩きませんでした。
最初に叩かれたのは、クヌート様の生徒の、いちばん下の十四のお嬢様でございます。それから四人。それから、そのご家族。広間の音が、あとから追いついて参りました。
オルガ様は膝を折り、立ち上がり、それからまっすぐこちらへ歩いてこられました。顔が真っ赤でございます。目の縁も、鼻の頭も。
「オルガ様。よく」
最後まで申し上げられませんでした。
オルガ様がわたくしの胸に頭をぶつけるようにして、泣き出されたからでございます。
「……こわかったですわ」
「はい」
「こわかった。すごく」
「はい」
しばらくして、しゃくり上げながら仰いました。
「姉様に、見せたかったですわ」
わたくしは、この方の背中に手を置きました。こわかった、ではないところで泣かれるのだと、その時に知ります。
「お姉様は、本日は」
「来ておりませんわ。あれきり、夜会にはお出になりませんの」
オルガ様は袖で目を拭われました。
「三年でございます。三年、一度も」
「……さようでございますか」
「ですから、家で申し上げますわ。踊れましたって」
顔を上げますと、壁際でクヌート様が立っておられました。
目が合いました。クヌート様は何も仰いません。ゆっくりと踵を返し、扉から出ていかれました。
勝った、とは思いませんでした。
あの方の三十年ぶんの生徒は、今日も背筋を伸ばして最後まで踊っておられます。ただ、いちばん下のお嬢様が最初に手を叩かれたことを、あの方はご覧になりました。それだけのことでございます。
人が引きはじめたころ、十四のお嬢様がこちらへ来られました。
クヌート様の生徒で、いちばん下の方でございます。
「あの、リンダール様」
「はい」
「わたくし、勝手に手を叩きましたわ。教師長様に叱られますかしら」
「叱られるかもしれません」
「まあ」
「けれど、いちばん先に叩いた方のことは、皆さま覚えておいでです」
お嬢様は少し笑い、それから小声で仰いました。
「わたくしの一歩は、リンダール様より指三本ぶん広うございました」
「よく覚えておいでですね」
「忘れませんもの。はじめて、遅いのではないと言われましたので」
お嬢様はご家族のほうへ戻っていかれました。わたくしはその背中を見ております。三十年ぶんの生徒のうちのおひとりでございます。あと何人おいでかは存じません。
広間を出る前に、上の階の桟敷を見上げました。
殿下がおいででした。
いつからいらしたのかはわかりません。手すりに手をかけ、床の中央をご覧になっております。オルガ様が踊り終えた場所でございました。
わたくしはそのまま下がりました。
廊下で、エルミナ様に呼び止められます。
「リンダール嬢。今、宰相様のお部屋のほうで話をしておりましたわ」
「はい」
「来月、シュタール王国から使節がおいでになりますの」
「存じております。外交の舞踏会でございますね」
「開幕の舞踏を、殿下がお踊りになります」
エルミナ様は、そこで一度、扇の縁を握られました。
「……お相手がいらっしゃいませんの」
オルガ様の回でございます。ここまで参りますと、あとはこの方が踊るのを見ているだけでよろしゅうございました。
踊り切ったあとに泣くところまでは決めておりましたけれど、「こわかった」ではなく「姉様に見せたかった」と仰ったのは、書いている最中にご本人がお決めになったことでございます。作者は白墨の粉を片づける係に回りました。
最初に手を叩いたのが、負けた側のいちばん下のお嬢様であったこと。あの一拍だけ、持って帰っていただけますと嬉しゅうございます。
次は、開幕の舞踏に殿下のお相手がいないという話が回って参ります。
ブックマークと評価をいただけますと、白墨がひと月に四本から五本へ増えます。増えたぶんだけ、線を引いて差し上げられる方が増えます。




