第11話 隣国の儀典長
シュタール王国の使節が到着なさいましたのは、その十日後でございます。
わたくしがそれを知りましたのは、街の文具屋で白墨を買っている時でございました。表通りを、見慣れない紋の馬車が三台続けて上がっていきます。
「あれがシュタールの」
文具屋の主人が窓の外を見ながら仰いました。
「儀典長がおいでだそうですよ。あちらの国は、式典の順序ひとつで戦を始めた家柄だとか」
「まさか」
「まさかでございましょうね。けれど、皆さんそう仰いますので」
主人は釣り銭を数えながら、そう仰いました。噂の出どころというのは、たいていこういう店先でございます。
白墨を六本買いました。オルガ様の稽古で、ひと月に四本ほど減るのでございます。
披露の会から十日のあいだに、お手紙が七通参りました。
うち五通は、娘に踊りを見てやってほしいというお話でございます。残りの二通は、そのようなことをなさるとご自身の縁談に障りますよ、というご忠告でございました。
どちらも同じ字の、同じような便箋でございます。世の中というのは、そういうふうにできております。
母は七通とも読んでから、こう仰いました。
「五通のほうが多いですね」
「ええ」
「では、そちらでよろしいのではありませんか」
母がわたくしの側に立たれたのは、これが初めてでございました。
王宮からの使いが参りましたのは、その翌日でした。
今度は父宛てではなく、わたくし宛てでございます。差出人は侍従長のギルベルト様。用件は「稽古場の件で相談したい」とだけございました。
伺いますと、稽古場にはクヌート様と侍従長、それから見知らぬ男の方がおいででした。
四十ほどでいらっしゃいましょうか。灰色の上着に、金の縁取りのない飾りをひとつだけ着けておられます。飾りが少ないのは、飾らなくてよい立場だからでございました。
「シュタール王国儀典長、ヴィルフリートと申します」
「マチルデ・フォン・リンダールでございます」
「伯爵家のご息女が、なぜ王宮の稽古場に呼ばれるのです」
最初のお言葉がそれでございました。
侍従長が口を開かれる前に、クヌート様が仰いました。
「この者は、歩幅を測ります」
「測る」
「一歩の幅を紐で取り、床に印をつけます。数で合わせる法でございます」
ヴィルフリート様は、しばらく黙ってわたくしをご覧になりました。
「面白い。だが、それは舞踏ではありませんな」
「はい。舞踏の前にすることでございます」
「前に」
「靴を履くのと同じでございます。履かずに踊ることもできますが、たいてい痛い思いをいたします」
ヴィルフリート様の口の端が、わずかに動きました。笑われたのかどうかは、わかりかねます。
「では、本題に入りましょう」
ヴィルフリート様は、卓の上に一枚の紙を広げられました。
式次第でございます。線と四角と、細かな数字がびっしりと並んでおります。
「両国の同盟更新に際し、来月十七日、こちらの王宮で舞踏会が催されます。開幕の舞踏は王太子テオドリク殿下と、貴国のご令嬢おひとり。曲は三拍子、九十二小節」
紙の上に、殿下のお名前が書かれておりました。書かれた名前を見るのは、婚約の書面以来でございます。
その隣の欄は、空のままでございました。
「お相手の欄が、埋まっておりませんな」
「……ただいま、調整をしております」
侍従長がそう申し上げました。ヴィルフリート様は顔を上げず、指先で空欄を二度だけ叩かれます。
「十日前までに埋めていただきたい。名を伏せたまま隊列は組めません」
「承知しております」
九十二小節。あの日の曲と同じでございました。
「その十六小節目に、我が国の使節団が四列で入場いたします。列は殿下の歩に合わせて進みます」
わたくしは、紙の上の数字を目で追いました。
「……列が、殿下の歩に」
「さよう。先頭が殿下の三歩目に合わせて足を出し、以下、四列が同じ間隔で続く。我が国では二百年、この形でやっております」
侍従長が咳払いをなさいました。
「ヴィルフリート殿。もし、その、多少の乱れがございましたら」
「乱れますか」
「いえ、そのようなことは」
「乱れれば、列が詰まります。詰まれば、後列の若い者が前列の踵を踏む。踏まれた者は下がる。下がれば、隊列は崩れます」
ヴィルフリート様は式次第を指で押さえられました。
「そして、それは両国の格の話になります」
どなたも何も仰いませんでした。
「私は脅しに参ったのではありません。順序を確かめに参りました。乱れるなら、開幕の舞踏を隊列の前に動かせばよい。動かせば格は下がりますが、崩れるよりはましです」
「動かすのですか」
「そちらがお決めになることです。私は記録を書くだけでございますので」
記録、という言葉が出た時、わたくしは思わず顔を上げておりました。
ヴィルフリート様と目が合います。
「リンダール嬢。何か」
「いえ。……失礼いたしました」
「記録がお嫌いですか」
「いいえ。むしろ、よく存じております」
ヴィルフリート様は紙を巻き、それきり何も仰らずに出ていかれました。
扉が閉まったあと、しばらく誰も口を開きませんでした。
脅しに参ったのではない、と仰ったのは本当でございましょう。あの方は、崩れる側の事情には関心をお持ちでない。関心をお持ちでない方の記録ほど、あとに残ります。
残されたのは、侍従長とクヌート様とわたくしでございます。
クヌート様が、椅子の背に手をかけたまま、床をご覧になっておられました。
「……三歩目に合わせて、四列」
「はい」
「殿下の左足は、三歩目でございます」
わたくしは答えませんでした。答えなくとも、この方はもう三十年ぶんの目でお気づきでいらっしゃいます。
わたくしは、卓の上に残った式次第の跡を見ておりました。紙はもうございませんけれど、数字は覚えております。
九十二小節。三拍子。三歩目に四列。
三歩目というのは、右、左、右のうちの、三つ目でございます。つまり右足。右足なら遅れません。
けれども、その次の四歩目で左が出ます。四歩目が遅れれば、五歩目の右が詰まります。詰まった右に合わせて六歩目が伸び、七歩目でまた狭まる。列は、そこで揺れます。
二百年やってこられた形だと、ヴィルフリート様は仰いました。二百年ぶんの目は、半拍を見逃さないでしょう。
「クヌート様。エルミナ様のお稽古は、まだ続けてよろしゅうございますか」
「……続けなさい」
「はい」
「リンダール嬢。私は、あの披露の日から考えていることがあります」
「はい」
「三十年、私は誰にも足の話をしませんでした。しなかったのは、私が知らなかったからです」
それだけ仰って、クヌート様も部屋を出ていかれました。
侍従長がわたくしのほうへ向き直られます。
この方が頭を下げられるのは、これで二度目でございました。
「リンダール嬢。折り入って、お願いがございます」
シュタールは、式典の順序ひとつで戦を始めた家柄なのだそうでございます。もっとも、この話の出どころは文具屋の主人でございました。噂の出どころは、たいてい店先でございます。
その文具屋で、マチルデは白墨を六本買っております。六本がどこへ行き着くかは、第十五話までお持ちくださいませ。
九十二小節。三拍子。三歩目に四列。殿下の左足が出るのは、その次の一歩でございます。




