第12話 わたくしは、もう数えません
「開幕の舞踏を、あなたにお願いしたい」
侍従長は、そう仰いました。
稽古場には、もうわたくしたち二人しかおりません。
窓の外はよく晴れており、庭で子どもが走り回る声が聞こえておりました。
クヌート様が出ていかれた扉は、閉め切られておりません。半分ほど開いたままでございます。閉めに行くのも変でございますので、そのままにしておきました。
「わたくしは婚約を解いた身でございます」
「存じております。ですから、お相手としてではなく、その、なんと申しますか」
「一度きりの、代わりということでございますね」
「……はい」
侍従長は正直な方でございました。言い換えの下手な方は、たいてい正直でございます。
「殿下とあなたなら、十年の実績がございます。九十二小節、一度も崩れたことがない。列は三歩目に合わせて入る。三歩目さえ揃えば、隊列は通ります」
「はい」
「ご家格の問題は、宰相様が引き受けられます。当日限りの介添えという名目にすれば、角も立ちません」
「角が立たないのは、どなたでございますか」
侍従長が口を閉じられました。
同じことを、園遊会の芝生で十三のご令嬢に聞かれたことがございます。あの時、わたくしは答えられませんでした。
「リンダール嬢。無理を申し上げているのは承知しております」
「ええ」
「ですが、あなたにしかできません」
「それは違います」
わたくしは、そこで一度、息を整えました。
ここで泣けば、話は長引きます。怒れば、家が傷を負います。二月前に決めた三つのことは、まだ効いておりました。
「わたくしは、もう数えません」
「……なんと」
「殿下の拍を数えるのをやめました。やめましたので、当日、わたくしが踊っても崩れます」
「そんなはずは。十年」
「十年やって参りましたから申し上げております」
わたくしは自分の手のひらを見ました。
この二月、白墨を握りすぎて、指の腹が荒れております。舞踏の手袋をいたしますと、その荒れが布に引っかかるようになりました。十年、そんなことは一度もございませんでした。
手というのは、使ったほうの形になるものでございます。
「合わせるというのは、相手の拍を身体の中に置いておくということでございます。置いておくには、書かねばなりません。書かねば忘れます。わたくしは、あの帳面をお返しいたしました」
「写しは」
「取っておりません」
「……なぜ」
「取れば、いつかまた開くことになりますので」
侍従長はしばらく黙っておられました。
「あの帳面を、殿下から取り戻すことはできませんか」
「あれは殿下のものでございます」
「もとはあなたの私物でしょう」
「はい。わたくしの紙に、わたくしが書いたものでございます。ですから、差し上げるかどうかもわたくしが決めました。決めたものを、あとから返せとは申しません」
侍従長が、深く息を吐かれました。
この方は三十年、記録を扱ってこられた方でございます。所有というものが何を意味するかを、わたくしよりよくご存じでいらっしゃいます。
「……では、命じることもできませんな」
「はい。あの帳面が王家の記録でしたら、命じられたでしょう」
「クヌート殿があなたに難癖をつけた時、王家の記録だと言い張っておけばよかったと、今になって思いますよ」
「あの時そう決まっておりましたら、今ごろ目録に載って、どなたでもご覧になれます」
侍従長が、初めて小さく笑われました。
「あなたは、ずいぶんお強くなられた」
「いいえ。二月前から、同じことを申し上げております」
立ち上がり、膝を折りました。
「侍従長様。ひとつだけ、申し上げてよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「開幕の舞踏に必要なのは、合わせられるお相手ではございません」
「では、何です」
「合わせていただかなくても踊れる殿下でございます」
部屋を出て、廊下を歩きました。
窓の外の子どもの声が、まだ続いております。
悔しくないわけではございません。
十年、この王宮で「よく合っている」と言われ続け、合っている理由を誰も尋ねませんでした。尋ねられないまま解かれて、いよいよ困った時にだけ、あなたにしかできないと言われる。
それでも、お受けすれば、また同じことが始まります。四百十三回目、四百十四回目と続いて、そのあいだ、どなたもわたくしの歩幅を測りません。
門を出るまでに七十六歩ございました。
数えてしまうのは、まだ癖が抜けないからでございます。癖は抜けなくてよいのです。使い道さえ変えれば。
屋敷に戻りますと、父が書斎から出ておいででした。
王宮の話は、たいてい父のほうが早くお聞きになります。
「マチルデ。お断りしたそうだな」
「はい」
「宰相家から、今しがた人が来た」
「早うございますこと」
「お前が門を出るより先に馬を出したのだろう」
父は椅子に腰を下ろされました。この方が声を荒げるところを、わたくしは見たことがございません。
「理由を聞かせなさい」
「わたくしには、もう数える用意がございません」
「それは方便だな」
「はい」
「本当のところは」
わたくしは、しばらく黙っておりました。父は待っておられます。この方は、待つのが上手でいらっしゃいます。
「お受けいたしましたら、うまくいってしまいます」
「うまくいくのが困るのか」
「うまくいけば、なぜうまくいったかは、また誰も尋ねません。十年、そうでございました」
父は指で肘掛けを二度叩かれました。
「家のことは考えたか」
「考えました。弟の縁談に障るかもしれません」
「障るだろうな」
「申し訳ございません」
「いや」
父は立ち上がり、書斎のほうへ二歩戻って、それから振り返られました。
「お前が十一の春に王宮へ上がった日、私は馬車の中で、辛くなったら言いなさいと申した。覚えているか」
「覚えております」
「十年、一度も言われなかった」
父はそれきり書斎へ入っていかれました。
扉が閉まってから、わたくしはしばらく廊下に立っておりました。
言わなかったのは、言う場所がなかったからではございません。言えば、合わせているのが知れてしまうからでございました。
その晩、王宮の東の翼で、殿下が机の抽斗をお開けになったそうでございます。
わたくしがそれを知りますのは、もう少し先のことでございました。
断る回でございます。
お受けすれば、うまくいってしまいます。うまくいけば、なぜうまくいったのかを、また誰も尋ねません。十年、そうでございました。
門まで七十六歩。癖は抜けなくてよいのです。使い道さえ変えれば。
その晩、王宮の東の翼で、抽斗がひとつ開きます。




