第13話 帳面をお読みになりましたか
王家の馬車がリンダール家の門に停まりましたのは、開幕まであと九日という日の朝でございました。
母が二階から降りてこられ、それから何も仰らずに客間の扉を開けられました。父は登城しておりません。今日は家におります、と昨夜のうちに仰っておられました。
殿下はお付きの方を門に残し、おひとりで玄関へ入ってこられました。
手に、包みをお持ちでございます。
王太子殿下が伯爵家をお訪ねになるのは、婚約が調った時と、解けた時と、あとは弔いの時くらいでございます。今日はそのどれでもございません。
母は客間の花を三度も入れ替えられました。三度目に入れ替えたのは、二度目のほうが立派だったからでございます。そういう朝でございました。
「突然に済まない」
「とんでもないことでございます」
客間で向かい合いますと、殿下は包みを卓の上に置かれました。
解かずとも、中身はわかります。厚みで知れます。
「読んだ」
「さようでございますか」
「二晩かかった」
殿下は包みの結び目に指をかけ、それから離されました。
「マチルデ。ひとつ聞いてもいいか」
「はい」
「最後の頁が、白い」
わたくしは、膝の上で手を重ねました。
「あの日から、書いておりませんので」
「そうか。……いや、それはわかる。わかるのだが」
殿下は言葉をお探しになりました。指が卓を叩きます。四回で止まり、また四回。
「白い頁が、二十ほど残っている」
「はい」
「あれは、綴じた時からそうだったのか」
「いいえ。書くつもりで残しておりました」
「……二十頁」
「四百十二回で百十頁ほどでございますから、二十頁と申しますと、あと七十回ぶんでございましょうか」
殿下の指が止まりました。
「七十回」
「はい」
「私は、あと七十回、君に数えてもらう予定だったということか」
「予定と申しますより、そのくらいは続くものと思っておりました」
殿下はしばらく、包みをご覧になっておいででした。
「余白に、書き足しがあった」
「ございましたでしょうか」
「左足、かばう。冬に強く」
わたくしは、その一行を思い出しました。三月ほど前、最後の舞踏会の帰りの馬車で書いたものでございます。
「かばう、と書いてあった」
「はい」
「遅い、ではなく、かばう、と」
「遅れる理由が、癖ではなさそうでしたので」
殿下が顔を上げられました。
この方が言葉に詰まっておられるのを、十年で二度目に見ました。
「……九つの時に、馬から落ちた」
「はい」
「左の踝を痛めた。三月ほど寝ていた。治ったと言われて、それきりだ。誰にも言っていない」
「存じませんでした」
「そうだろう。私も忘れていた」
殿下は自分の左足を見下ろされました。
「忘れていたものを、君の帳面が覚えていた」
部屋の外で、母が茶器を置く音がいたしました。運んでは来られません。おそらく扉の前で引き返されたのでございましょう。
三度入れ替えた花は、卓の端で誰にも見られずにおります。今日はそういう日でございました。
「マチルデ。数えてみたのだ」
「何をでございますか」
「四百十二回。一回に九十二小節、三拍子。一小節に三歩として」
殿下は指を折られました。折りながら、途中で止められます。
「十一万三千七百十二歩になる」
「そのくらいでございましょうか」
「そのうちの、三歩に一度。君が半分だけ内へ入っていた」
わたくしは何も申しませんでした。
この計算は、わたくしもしたことがございません。書くばかりで、足したことがなかったのでございます。
「私は、それを一度も見ていない」
「見えないように調えておりましたので」
「そうだ。君はそう書いていた。『そう見えるのが正しい』と」
殿下は、はじめて笑われました。うまく笑えておいででは、ありませんでした。
「侍従長から聞いた。開幕を断ったそうだな」
「はい」
「理由も聞いた。もう数えない、と」
「はい」
「怒っているのか」
「いいえ」
「怒ってくれたほうが、私は楽なのだが」
「存じております」
「知っていて、怒らないのか」
「怒りますと、殿下は謝られます。謝られますと、話が終わります」
「終わってはいけないのか」
「終わりましたら、殿下は明日また同じように踊られます」
殿下が、こちらをまっすぐご覧になりました。
目を逸らされないのは、この方の美点でございます。十年、そう思って参りました。
「マチルデ。君は、私を直そうとしているのか」
「いいえ」
「では、何だ」
「殿下がご自分で数えられるようになれば、次のお相手が数えずに済みます。それだけでございます」
「次の相手」
「はい」
「……君ではないのだな」
「わたくしではございません」
殿下は包みの結び目に、もう一度指をかけられました。今度は解かれません。
「十年、君は一度も嫌だと言わなかった」
「言えば、合わせていることが知れてしまいますので」
「知られては、いけなかったのか」
「上手な女は、そういうことを申しません。そう教わりました」
「誰に」
「どなたに、ということはございません。皆さまが、そう仰っておりましたので」
殿下はしばらく黙り、それから低い声で仰いました。
「私も、そのうちのひとりだな」
わたくしは、否定いたしませんでした。
殿下は包みを持ち上げ、それからまた置かれました。
「これは、返したほうがいいのか」
「殿下がお決めになることでございます」
「君のものだったのだろう」
「差し上げました。差し上げたものの行き先を、わたくしは決めません」
しばらく、どちらも何も申しませんでした。
庭で、鳥が鳴いておりました。昨日も同じ時刻に鳴いていた鳥でございます。こういう日にかぎって、いつもと同じものがよく目につきます。
「マチルデ。九日後、私は誰と踊ればいい」
「エルミナ様がおいででございます」
「あれは踏んだ」
「踏まれたのはエルミナ様でございます」
「……ああ。そうだ。そうだった」
殿下は立ち上がり、包みを胸に抱えられました。
玄関まで十一歩ございました。
「マチルデ」
「はい」
「あと七十回ぶんの紙は、どうしたらいい」
「お好きにお使いくださいませ」
「私が書いてもいいのか」
「殿下の紙でございますから」
馬車が門を出ていく音を、母と二人で聞いておりました。
その日の午後、公爵家から使いが参りました。
エルミナ様が、開幕の舞踏をお務めになると決められた、とのことでございます。
十一万三千七百十二歩。四百十二回に、九十二小節と三拍子と一小節三歩を掛けた数でございます。書いた本人が一度も足したことのない数を、読んだ側が足しました。この話でいちばん書きたかったのは、その順番でございます。
余白の二十頁が、あと七十回ぶんだったこと。あれは、続くと思っていた人の残した空白でございました。
ブックマークと評価は、その白紙二十頁ぶんの紙代に……いえ、あの紙はもう殿下のものでございました。では、次の生徒の白墨代に充てさせていただきます。
残りは八日でございます。




