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あなたの歩幅に合わせていたのは、わたくしでございます 〜婚約解消の翌週から、殿下は誰とも踊れません〜  作者: 由良こはる


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13/15

第13話 帳面をお読みになりましたか

 王家の馬車がリンダール家の門に停まりましたのは、開幕まであと九日という日の朝でございました。

 母が二階から降りてこられ、それから何も仰らずに客間の扉を開けられました。父は登城しておりません。今日は家におります、と昨夜のうちに仰っておられました。


 殿下はお付きの方を門に残し、おひとりで玄関へ入ってこられました。

 手に、包みをお持ちでございます。


 王太子殿下が伯爵家をお訪ねになるのは、婚約が調った時と、解けた時と、あとは弔いの時くらいでございます。今日はそのどれでもございません。

 母は客間の花を三度も入れ替えられました。三度目に入れ替えたのは、二度目のほうが立派だったからでございます。そういう朝でございました。


「突然に済まない」

「とんでもないことでございます」


 客間で向かい合いますと、殿下は包みを卓の上に置かれました。

 解かずとも、中身はわかります。厚みで知れます。


「読んだ」

「さようでございますか」

「二晩かかった」

 殿下は包みの結び目に指をかけ、それから離されました。


「マチルデ。ひとつ聞いてもいいか」

「はい」

「最後の頁が、白い」

 わたくしは、膝の上で手を重ねました。


「あの日から、書いておりませんので」

「そうか。……いや、それはわかる。わかるのだが」

 殿下は言葉をお探しになりました。指が卓を叩きます。四回で止まり、また四回。

「白い頁が、二十ほど残っている」

「はい」

「あれは、綴じた時からそうだったのか」

「いいえ。書くつもりで残しておりました」

「……二十頁」

「四百十二回で百十頁ほどでございますから、二十頁と申しますと、あと七十回ぶんでございましょうか」


 殿下の指が止まりました。


「七十回」

「はい」

「私は、あと七十回、君に数えてもらう予定だったということか」

「予定と申しますより、そのくらいは続くものと思っておりました」


 殿下はしばらく、包みをご覧になっておいででした。


「余白に、書き足しがあった」

「ございましたでしょうか」

「左足、かばう。冬に強く」

 わたくしは、その一行を思い出しました。三月ほど前、最後の舞踏会の帰りの馬車で書いたものでございます。


「かばう、と書いてあった」

「はい」

「遅い、ではなく、かばう、と」

「遅れる理由が、癖ではなさそうでしたので」


 殿下が顔を上げられました。

 この方が言葉に詰まっておられるのを、十年で二度目に見ました。


「……九つの時に、馬から落ちた」

「はい」

「左の踝を痛めた。三月ほど寝ていた。治ったと言われて、それきりだ。誰にも言っていない」

「存じませんでした」

「そうだろう。私も忘れていた」

 殿下は自分の左足を見下ろされました。

「忘れていたものを、君の帳面が覚えていた」


 部屋の外で、母が茶器を置く音がいたしました。運んでは来られません。おそらく扉の前で引き返されたのでございましょう。

 三度入れ替えた花は、卓の端で誰にも見られずにおります。今日はそういう日でございました。


「マチルデ。数えてみたのだ」

「何をでございますか」

「四百十二回。一回に九十二小節、三拍子。一小節に三歩として」

 殿下は指を折られました。折りながら、途中で止められます。

「十一万三千七百十二歩になる」

「そのくらいでございましょうか」

「そのうちの、三歩に一度。君が半分だけ内へ入っていた」


 わたくしは何も申しませんでした。

 この計算は、わたくしもしたことがございません。書くばかりで、足したことがなかったのでございます。


「私は、それを一度も見ていない」

「見えないように調えておりましたので」

「そうだ。君はそう書いていた。『そう見えるのが正しい』と」

 殿下は、はじめて笑われました。うまく笑えておいででは、ありませんでした。


「侍従長から聞いた。開幕を断ったそうだな」

「はい」

「理由も聞いた。もう数えない、と」

「はい」

「怒っているのか」

「いいえ」

「怒ってくれたほうが、私は楽なのだが」

「存じております」

「知っていて、怒らないのか」

「怒りますと、殿下は謝られます。謝られますと、話が終わります」

「終わってはいけないのか」

「終わりましたら、殿下は明日また同じように踊られます」


 殿下が、こちらをまっすぐご覧になりました。

 目を逸らされないのは、この方の美点でございます。十年、そう思って参りました。


「マチルデ。君は、私を直そうとしているのか」

「いいえ」

「では、何だ」

「殿下がご自分で数えられるようになれば、次のお相手が数えずに済みます。それだけでございます」

「次の相手」

「はい」

「……君ではないのだな」

「わたくしではございません」


 殿下は包みの結び目に、もう一度指をかけられました。今度は解かれません。


「十年、君は一度も嫌だと言わなかった」

「言えば、合わせていることが知れてしまいますので」

「知られては、いけなかったのか」

「上手な女は、そういうことを申しません。そう教わりました」

「誰に」

「どなたに、ということはございません。皆さまが、そう仰っておりましたので」


 殿下はしばらく黙り、それから低い声で仰いました。

「私も、そのうちのひとりだな」

 わたくしは、否定いたしませんでした。


 殿下は包みを持ち上げ、それからまた置かれました。


「これは、返したほうがいいのか」

「殿下がお決めになることでございます」

「君のものだったのだろう」

「差し上げました。差し上げたものの行き先を、わたくしは決めません」


 しばらく、どちらも何も申しませんでした。

 庭で、鳥が鳴いておりました。昨日も同じ時刻に鳴いていた鳥でございます。こういう日にかぎって、いつもと同じものがよく目につきます。


「マチルデ。九日後、私は誰と踊ればいい」

「エルミナ様がおいででございます」

「あれは踏んだ」

「踏まれたのはエルミナ様でございます」

「……ああ。そうだ。そうだった」


 殿下は立ち上がり、包みを胸に抱えられました。

 玄関まで十一歩ございました。


「マチルデ」

「はい」

「あと七十回ぶんの紙は、どうしたらいい」

「お好きにお使いくださいませ」

「私が書いてもいいのか」

「殿下の紙でございますから」


 馬車が門を出ていく音を、母と二人で聞いておりました。

 その日の午後、公爵家から使いが参りました。

 エルミナ様が、開幕の舞踏をお務めになると決められた、とのことでございます。

 十一万三千七百十二歩。四百十二回に、九十二小節と三拍子と一小節三歩を掛けた数でございます。書いた本人が一度も足したことのない数を、読んだ側が足しました。この話でいちばん書きたかったのは、その順番でございます。

 余白の二十頁が、あと七十回ぶんだったこと。あれは、続くと思っていた人の残した空白でございました。

 ブックマークと評価は、その白紙二十頁ぶんの紙代に……いえ、あの紙はもう殿下のものでございました。では、次の生徒の白墨代に充てさせていただきます。

 残りは八日でございます。

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