第14話 エルミナ様の一小節
残りは八日でございました。
稽古は王宮の稽古場をお借りいたしました。クヌート様が使わせてくださったのでございます。ご自分は一度も見物にいらっしゃいませんでした。
初日、わたくしはエルミナ様に紐をお渡ししました。稽古場の床はよく磨かれており、白墨がきれいに乗ります。
「まず、ご自分の三歩を測ってくださいませ」
「あなた様が測ってくださらないの」
「ご自分でお測りください。ご自分の一歩は、ご自分で知っておくものでございます」
エルミナ様は膝をついて紐を伸ばされました。公爵家のご令嬢が床に膝をつくのは、たいへんなことでございます。裾の埃を気になさる素振りはございません。
「……あなた様と、同じくらいでございましょうか」
わたくしは自分の三歩を並べて測りました。印は、ほとんど重なります。
「ええ。わたくしと同じでございます。殿下より、指三本ぶん狭うございます」
エルミナ様が顔を上げられました。
「三本」
「はい。十年、わたくしが埋めていた三本と、同じ幅でございます」
「……では、わたくしも、埋めるのですね」
「いいえ」
わたくしは、そこを間違えていただきたくございませんでした。
「埋めるのは、広いほうの役目でございます」
わたくしは白墨で床に四つの点を打ちました。オルガ様に打ったのと同じ間隔でございます。
「エルミナ様。これまで、どのように合わせておいででしたか」
「殿下が動かれるのを見て、それから動いておりましたわ」
「見てからでは、必ず遅れます」
「では、どうすれば」
「合わせないでくださいませ」
エルミナ様が、扇を持つ手を止められました。
「……合わせない」
「はい。ご自分の拍で出てくださいませ」
「そんなことをしたら、ばらばらになりますわ」
「なりません。合わせる者がひとりいれば、二人は揃います。二人とも合わせようとすると、二人とも遅れます」
エルミナ様は、しばらく点を見ておられました。
「では、合わせるのはどなたですの」
「殿下でございます」
「殿下が、わたくしに」
「はい」
部屋が動かなくなりました。エルミナ様は、扇をゆっくりと下ろされます。
「リンダール嬢。それは、十年のあいだ、あなた様がなさっていたことでございましょう」
「はい」
「それを殿下に」
「はい」
「……できますかしら」
「できなければ、乱れます。乱れたら、それは殿下のご不首尾でございます。あなた様のものではございません」
エルミナ様の目のふちが赤くなりました。
それから、深く息を吸って、点の上に立たれました。
「一。二。三。四」
わたくしが声を出しますと、エルミナ様の足が出ます。四つの点の上を、はじめは一歩ずつ確かめるように渡っていかれました。
三日目までは、二歩目で必ず遅れておいででした。合わせる癖が抜けないのでございます。抜けない癖を抜くには、抜けるまで繰り返すよりございません。
合わせる癖というのは、悪い癖ではございません。相手を見ている、というだけのことでございます。ただ、相手も同じことをしていると、二人でお辞儀を譲り合うようなことになります。誰かが先に出ないと、いつまでも始まりません。
四日目に、アンゼルム様がおいでになりました。
「拍はこちらで出します」
弓を構え、四小節だけ弾かれます。楽が鳴りますと、エルミナ様の肩が下がりました。人の声で数えられるより、楽のほうが恥ずかしくないのでございましょう。
「リンダール嬢」
休みの合間に、アンゼルム様が仰いました。
「あなたが十年やっていたことを、八日で教えるのですか」
「教えているのは、合わせ方ではございません。合わせないやり方でございます」
「なるほど。そちらのほうが短くて済む」
「ええ。合わせるのは、十年かかりましたので」
アンゼルム様は弓を下ろし、少し黙ってから仰いました。
「当日、私が首席で入ります。三歩目の拍を、わずかに広く取ります」
「……よろしいのですか」
「楽団の裁量です。誰にも咎められません」
「殿下の左足のためだと、お気づきになる方がおいでかもしれません」
「気づく方は、もう気づいておられるでしょう」
五日目に、稽古場の扉が細く開きました。
緑の帽子が覗いております。オルガ様でございました。
「見学ですの。邪魔はいたしませんわ」
「オルガ様。こちらは公爵家の」
「存じております。エルミナ様でいらっしゃいましょう」
オルガ様はずかずかと入ってこられ、それから膝を折って、たいそう丁寧な礼をなさいました。礼だけは完璧でいらっしゃいます。
エルミナ様が困った顔をなさいました。
「あなた、先日の披露で踊られた方ね」
「はい」
「よく通されましたわね。わたくし、あの日ずっと手に汗をかいておりましたの」
「わたくしは足に汗をかいておりましたわ」
エルミナ様が笑われました。声を立てて笑われるのを見たのは、初めてでございます。
「オルガ様。ひとつ伺ってもよろしくて」
「なんなりと」
「止まった時、こわくございませんでしたの」
「こわかったですわ。ですけれど、こわいのは止まっている時だけでございます。動き出すと、なくなりますの」
「……動き出せない時は」
「数えてもらいますわ」
エルミナ様は、床の四つの点をご覧になりました。
「当日、リンダール嬢は数えてくださいませんのよ」
「では、ご自分で数えればよろしいですわ」
オルガ様は、あっさりとそう仰いました。
「わたくし、いまは自分で数えておりますの。先生の声は、もう頭の中におりますもの」
エルミナ様が、こちらをご覧になりました。
わたくしは何も申しませんでした。申し上げることは、この十三の方がもう全部仰っておられます。
六日目。
エルミナ様が、はじめて四小節を通されました。
通し終えた時、扇が床に落ちました。三月のあいだ、ずっと握っておいでだった扇でございます。
「あら」
「エルミナ様。手が空いておりますね」
「……ええ。空いておりますわ」
拾って差し上げますと、要の部分が緩んでおりました。握り続けた指の形に、骨が寄っております。
「新しいものをお持ちくださいませ」
「これでよろしいですわ。もう握りませんもの」
八日目の稽古の終わりに、エルミナ様が仰いました。
「リンダール嬢。当日、いらしてくださいますか」
「わたくしは招かれておりません」
「わたくしがお招きいたしますわ。公爵家の連れとして」
「エルミナ様」
「見ていただきたいのです。……いいえ、違いますわね」
エルミナ様は言い直されました。
「見ていただかないと、わたくしが困りますの。数えてくださる方が、どこかにいらっしゃると思えませんと」
「当日は、数えません」
「ええ。数えなくてよろしいですわ。座っていてくださいませ」
わたくしは白墨を片づけました。
六本買ったうちの、五本目が半分ほどになっております。
「合わせないでくださいませ」。十年かけて身につけた技を、八日で反対向きに渡す回でございます。合わせるのには十年かかりましたが、合わせないやり方は八日で済むのだそうでございます。作者もその場で初めて伺いました。
三月のあいだ握りっぱなしだった扇が、床に落ちます。要が緩んでおりました。手というのは、使ったほうの形になるものでございます。
白墨は、六本のうち五本目が半分。十七日の夜、蝋燭は五百でございます。




