第15話 あなたの歩幅に合わせていたのは、わたくしでございます
十七日の夜、王宮の大広間には蝋燭が五百ほど灯っておりました。
いつもより多うございます。両国の同盟更新の席でございますから、明るさもまた格のうちなのでございましょう。
わたくしは公爵家の連れとして、壁際の三列目におりました。
隣にオルガ様が座っておられます。招かれたわけではなく、ザントナー家の末席にもぐり込んでこられたのだそうでございます。
「リンダール様。帳面はお持ちですの」
「持っておりません」
「白墨は」
「持っておりません」
「では、手が空いておりますわね」
「ええ。空いております」
シュタールの使節団が、広間の東の扉の外に整列しておられます。
四列。先頭に立っておられるのはヴィルフリート様でございました。手には巻いた紙をお持ちです。記録を書くだけでございます、と仰った、あの式次第でございましょう。
楽団が入りました。
アンゼルム様が首席の椅子に着き、弓を膝に置かれます。こちらをご覧にはなりません。
殿下とエルミナ様が中央へ出られました。
エルミナ様は淡い青ではなく、深い緑のお召し物でいらっしゃいます。扇はお持ちになっておりません。持たないと決められたのでございましょう。
礼。
広間の音が引きます。五百の蝋燭の下で、床だけが白く残りました。
弦が下ります。
一小節目。
エルミナ様の右足が、先に出ました。
広間が、わずかに動きました。
開幕の舞踏で、女性のほうが先に出るのは作法に外れます。外れますけれども、あれは合図でございました。
殿下の右足が、それを追って出ます。
二小節目。左足が半拍遅れます。遅れましたけれども、エルミナ様は待っておられません。ご自分の拍で、次の一歩へ進まれます。
三小節目。
殿下が、歩幅を狭められました。
わたくしは膝の上で手を握りました。
指三本ぶん。狭めれば届きます。届けば、遅れは半拍のままで済みます。半拍のままで済めば、あとは肩で吸収できます。
十年、わたくしがしていたことでございました。それを今、殿下がしておられます。
四小節目、五小節目。
崩れません。
十六小節目。
東の扉が開き、シュタールの使節団が入って参りました。
先頭が殿下の三歩目に合わせて足を出します。二列目、三列目、四列目。列の間隔が、糸を張ったように揃っておりました。
アンゼルム様の弓が、その三歩目でわずかに広く動いております。気づいた方は、広間に何人おいででしょうか。
六十小節を過ぎたあたりで、殿下の肩が一度だけ落ちました。
力を抜かれたのでございます。抜けば、遅れは目立たなくなります。十年、わたくしがしていたのは、その肩の高さを一定に保つことでした。今夜は、殿下がご自分でなさっております。
九十二小節。
最後の一歩まで、二人は崩れませんでした。
拍手が起こりました。
いつもの拍手でございました。上手なのは殿下だ、という意味の拍手ではございません。ただ、無事に済んだという拍手でございます。
オルガ様が、わたくしの袖を引かれました。
「リンダール様。二百七十六歩、数えておりましたの」
「まあ」
「一歩も落としておりませんわ」
「上手におなりですね」
「先生に習いましたもの」
礼が済み、ヴィルフリート様が式次第を巻き直しておられました。
殿下はエルミナ様の手を離し、それから、まっすぐそちらへ歩いていかれます。
「儀典長殿」
「殿下。滞りなく通りましてございます。記録として承ります」
「その記録に、一行加えていただきたい」
ヴィルフリート様が顔を上げられました。広間の音が引きます。
「本日の開幕舞踏において、歩幅を合わせたのは私である、と」
「……それは、当然のことかと存じますが」
「当然ではない」
殿下のお声は、大きくはございませんでした。それでも、五百の蝋燭の下で、端まで届きました。
「私の左足は、右足より半拍遅れる。九つの時の怪我が残っている。私はそれを知らずに十年踊った。合っていたのは、相手が合わせていたからだ」
誰も、動きませんでした。
「あなたの歩幅に合わせていたのは、わたくしでございます」
殿下は、そう仰いました。
「——と、そういう帳面を、私は先日読んだ。十年ぶん、四百十二回。十一万三千七百十二歩の記録だ」
ヴィルフリート様が、紙をゆっくりと広げられました。
「殿下。それは、どなたの記録でございますか」
「リンダール伯爵家のマチルデ嬢のものだ。彼女の紙に、彼女が書いた」
「では、王家の記録ではございませんな」
「違う。だから、こうして口で申し上げている」
ヴィルフリート様は筆を執り、紙の端に短く何かを書き入れられました。
それから、こちらのほうを一度だけご覧になりました。
オルガ様が、わたくしの袖を強く引いておられます。
わたくしは、指で自分の膝を四度叩きました。一。二。三。四。数えたのではございません。手が空いておりましたので。
その夜の終わりに、クヌート様がわたくしのところへ来られました。
三十年ぶん背筋を伸ばしてこられた方が、少し猫背でいらっしゃいます。
「リンダール嬢。来春から、王宮の稽古場を週に二日、お使いなさい」
「……クヌート様」
「教師の免状は出せません。前例がないので。ですが、部屋を貸すのに免状は要りません」
「なぜ、そこまで」
「三十年、足の話をしなかった男が、今さら辞めるわけにはいかんのですよ。私の役目はあと六年ございます。そのあいだに、誰かへ引き継がねばならん」
クヌート様は膝を折って礼をなさり、それから背筋を伸ばして歩いていかれました。
広間を出ますと、廊下の窓が開いておりました。
夜風が入って参ります。冬にはまだ遠い季節でございました。
アンゼルム様が楽器の箱を提げて通りかかられます。
「三歩目、いかがでしたか」
「わずかに広うございました」
「気づいたのは、あなたともうひとりです」
「もうひとり」
「殿下です。踊りながら、こちらを一度ご覧になった」
わたくしは笑いました。
オルガ様が階段の下で「先生、遅うございますわ」と呼んでおられます。先生、と呼ばれるのは、まだ慣れません。
「アンゼルム様。来春から、稽古場を週に二日お借りします」
「では、拍が要りますね」
「お高いのでしょうか」
「白墨六本ぶんで結構です」
振り向きますと、オルガ様が階段を三段だけ上がってきておられました。
「先生」
「はい」
「殿下とエルミナ様は、あのままご結婚なさいますの」
「存じません」
「アンゼルム様とは、どうなりますの」
「オルガ様」
「だって、気になりますもの」
「気になるうちは、まだ何も決まっておりません」
オルガ様は不服そうなお顔をなさって、先に下りていかれました。
階段を下りながら、歩数を数えました。
二十二段。癖は抜けません。抜けないまま、下まで下りて、オルガ様の隣に並びました。
最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
「あなたの歩幅に合わせていたのは、わたくしでございます」。この一行を、本人ではなく相手の口から言わせる。決めていたのはそれだけで、あとは十五話ぶん歩いて参りました。マチルデは最後まで、どなたも責めておりません。責めるかわりに、十年ぶん正確に書いておりました。記録というものは、たいてい、怒鳴るより長く残ります。
白墨六本ぶんで結構です、というのが、この話でいちばん高い買い物でございました。ブックマークと評価は、その六本目に充てさせていただきます。
ところで、あなたの一歩は、どなたの一歩より指何本ぶん広うございましょうか。狭いほうが広げるのではなく、広いほうが狭める。それだけのお話でございました。
……階段は二十二段ございます。数える癖は、抜けません。




