第8話 小賢しい算術と仰いますが
王宮舞踏教師長の部屋は、東の翼の三階にございました。
壁一面に、歴代の王族の舞踏姿を描いた版画が並んでおります。三十年ぶん、少しずつ増えていったのでございましょう。
ラウレンツ・クヌート様は五十四におなりでございます。
背が高く、痩せておいでで、立っておられるだけで背筋の話をされているような姿勢の方でございました。
「お呼び立てして申し訳ない、リンダール嬢」
「とんでもないことでございます」
「単刀直入に申し上げる。ザントナー家のご令嬢と、公爵家のエルミナ様に、踊りを教えておられるとか」
「教えていると申し上げるほどのことではございませんが、お手伝いはしております」
「おやめいただきたい」
部屋の空気は動きませんでした。
わたくしは膝の上で手を重ね、続きをお待ちいたしました。
「王宮の舞踏を教えるのは、王宮舞踏教師の役目でございます。免状もございませんお嬢様が、家々を回って手ほどきをなさるというのは、前例がない」
「前例がないだけでございましたら、作ればよろしいのではございませんか」
クヌート様の眉が動きました。
「口の減らない方だ」
「失礼を申し上げました」
「いや。……それに、前例がないだけではありません。伺うところによると、あなたは紐で歩幅を測り、床に白墨で線を引いておられるそうですな」
「はい」
「数で踊るなど、品位に欠けます」
はっきりとしたお声でございました。
この方は嘘を仰っておりません。本当にそう思っておいでなのでございます。
王宮の舞踏教師には免状がございます。取るには六年かかり、六年のあいだに教わることの半分は姿勢のことでございます。姿勢を六年かけて身につけた方に、紐と白墨の話をするのは、たしかに礼を欠くことでございました。
「舞踏は数ではない。姿勢と、気品と、相手への敬意です。それを、指が何本、歩が何歩と勘定して見せるのは、舞踏を職人の仕事に落とすことになる」
「クヌート様」
「なんです」
「敬意というのは、目に見えるものでございますか」
「見えます。背筋に出る」
「では、背筋を伸ばしたまま相手の足を踏んだ場合、それは敬意でございますか」
部屋が動かなくなりました。
クヌート様の頬が一度動き、それから声が低くなります。
「……先日の茶会のことを仰っているのなら、あれは床のせいです」
「北の広間の床は、去年も磨いてございました」
「リンダール嬢」
「差し出がましいことを申し上げました。お許しくださいませ」
わたくしは頭を下げました。下げながら、これは長引くと思っておりました。
案の定、クヌート様は別のほうから来られました。
「そもそも、あなたが持っておられたという帳面。あれは王家の記録ではありませんか」
「いいえ」
「王太子殿下のお身体のことが書いてあると聞きました。それは王家に属する事柄でしょう」
「わたくしの紙に、わたくしが書いたものでございます。買ったのは西通りの文具屋、綴じたのはわたくしの手でございます」
「屁理屈だ」
「では、王家の記録ということにいたしましょう。そういたしますと、あの帳面は王宮に納められ、目録に載り、どなたでもご覧になれるようになります。それでよろしゅうございますか」
クヌート様が黙られました。
王太子殿下の左足が半拍遅れる、という一行が目録に載る。三十年この宮廷にいらした方でしたら、それがどういうことかはわたくしより早くおわかりになります。
「……いや。それには及ばない」
「はい」
「あれはあなたの私物です。それでよろしい」
わたくしはもう一度、頭を下げました。
「クヌート様。ひとつお願いがございます」
「まだ何かありますか」
「わたくしが差し出がましいことを申しておりますのは、あなた様のお教えを疑っているからではございません。背筋も気品も、わたくしは十年、あなた様の教えのとおりに参りました」
「……それは、まあ」
「ですから、一度だけ測らせてくださいませ」
「測る」
「あなた様の生徒でいらっしゃるご令嬢がたの歩幅を。それだけでございます。踊っていただく必要はございません。三歩、歩いていただければ済みます」
クヌート様は長いあいだ、版画の並んだ壁のほうを見ておられました。
「……何を証明なさるおつもりです」
「何も。ただ、数が出て参りますだけでございます」
「数が出たところで、舞踏がよくなるとは限らない」
「はい。限りません」
「ならばなぜ」
「限らないことを、数のほうから申し上げられるからでございます」
クヌート様は、ようやくこちらをまっすぐご覧になりました。
「明後日の午後、稽古がございます。四人来ます」
「ありがとうございます」
「言っておきますが、これはあなたを認めたのではない。前例のないことを黙って続けられるより、目の前でやっていただいたほうが早いというだけです」
「承知しております」
部屋を出ますと、廊下の突き当たりから弦の音が聞こえて参りました。
東の翼と稽古場は、思っていたよりも近いのでございます。
柱の陰で、アンゼルム様が壁にもたれておいででした。
「終わりましたか」
「お待ちくださっていたのですか」
「呼ばれたと聞きましたので。あの方は、長いのです」
わたくしは思わず笑ってしまいました。笑ってから、この二月ばかり笑っていなかったことに気がつきました。
「明後日、生徒がたの歩幅を測らせていただくことになりました」
「許しが出ましたか」
「認められたわけではないと、念を押されました」
「あの方らしい」
アンゼルム様は弓の先で、床を軽く二度叩かれました。
「リンダール嬢。ひとつだけ申し上げておきます」
「はい」
「あの方は、負けることを恐れておられるのではありません。三十年ぶんの生徒が、自分の教えのせいで損をしていたと知ることを恐れておられる」
「……ええ」
「ですから、勝ってはいけません。あの方の前で数を出すなら、生徒が得をする形でお出しなさい」
わたくしは頭を下げました。
その晩、紐の長さを確かめながら、アンゼルム様のお言葉を思い返しておりました。
勝ってはいけない、というのは、十年おなじことをして参りましたので、わたくしには馴染みのある作法でございます。
馴染みがあるからこそ、少し困りました。馴染んだやり方は、いつのまにか、自分を消すやり方になっておりますので。
王宮の舞踏教師の免状は六年かかり、その六年のうち半分は姿勢のお話なのだそうでございます。ですからクヌート様は、嘘も意地悪も仰っておりません。ただ、足の話が一行だけ抜けておりました。
三十年ぶんの正しさに、紐と白墨で伺いを立てる回でございます。しかも「勝ってはいけません」と釘を刺されたところで終わります。作者としても、たいへん面倒な条件を出されたと思っております。
明後日、四人ぶんの歩幅が床に並びます。




