第7話 エルミナ様のお申し出
公爵家の馬車が門をくぐりましたとき、母は台所へ走っていかれました。
うちのような伯爵家に公爵家のお嬢様がお見えになるのは、十年に一度ございましょうか。しかも先方は、婚約を解いたばかりの相手の、次のお相手と噂されている方でございます。
「お茶は三番目のもので構いませんね」
「一番よろしいものをお出ししてくださいませ」
「けれど、あれは殿下がおいでの時のために」
「お母様。もう殿下はおいでになりません」
母は口を開き、それから閉じ、湯を沸かしに行かれました。
エルミナ様は供の者を門のところに残し、おひとりで玄関へ入っておいでになりました。
それだけで、いろいろなことがわかります。今日のお話を人に聞かせたくないのだ、ということでございます。
「突然に、申し訳ございません」
「とんでもないことでございます。どうぞ」
客間へお通しし、向かい合って座りました。
エルミナ様は、湯気の立つ茶碗をしばらくご覧になっておいででした。それから、両手を膝に置いて、深く頭を下げられました。
「先日のこと、お詫び申し上げます」
「お顔をお上げくださいませ」
「わたくしのせいで、あなた様が」
「エルミナ様」
わたくしは、なるべく静かに申し上げました。
「お詫びをいただきますと、あなた様が何かをなさったことになってしまいます」
エルミナ様の肩が止まりました。
「あなた様は、何かなさいましたか」
「……いいえ」
「わたくしもそう存じております。ですから、お詫びは受け取れません」
エルミナ様は顔を上げ、それからしばらく黙っておられました。
目のふちが赤うございます。泣くのを我慢しておいでの顔は、十八でも二十一でも同じでございました。
「わたくし、殿下と三度しかお話ししたことがございませんの」
「三度」
「一度目は昨年の狩りの折。二度目は先の舞踏会。三度目が、先日の茶会でございます」
わたくしは茶碗を置きました。
「では、婚約のお話は」
「父と、宰相様のあいだで進んでおりますわ。わたくしが伺ったのは、先の舞踏会の三日前でございます」
三日前。
わたくしが婚約の解消を申し上げましたのは、その二日後でございました。
「あなた様は、ご存じでしたの」
「いいえ」
「……そう」
エルミナ様は小さく笑われました。笑うところではございませんのに、笑うほかにやりようがなかったのでしょう。
「わたくしたち、どちらも最後に知らされる側でしたのね」
しばらく、お互いに何も申しませんでした。
窓の外で庭師が枝を落としております。その音だけが続いておりました。
最後に知らされる側、という言い方を、わたくしは頭の中でもう一度なぞりました。
十年のあいだ、王宮で交わされた話のうち、わたくしの耳に届いたものがどれほどあったでしょうか。舞踏会の日取りは前の月に届きます。曲目は当日に知らされます。婚約の話は、家と家のあいだで済んでおりました。
わたくしが自分で決められたことは、帳面に何を書くかだけでございました。
「リンダール嬢。今日は、お願いに参りました」
「はい」
「わたくしに、踊りを教えてくださいませんか」
わたくしは、すぐには返事をいたしませんでした。
「エルミナ様。それが何を意味するか、おわかりでいらっしゃいますか」
「存じております」
「あなた様は、次の舞踏会で殿下とお踊りになります。その支度を、わたくしが手伝うということでございます」
「はい」
「よろしいのですか」
「よろしくございません」
エルミナ様は、はっきりとそう仰いました。
「よろしくございませんけれど、ほかにどなたもいらっしゃいませんの。教師長のクヌート様は、姿勢のことしか仰いません。背筋を伸ばせ、顎を引け、と。伸ばしても引いても、殿下とは合いませんでしたわ」
わたくしは、その言葉を二度、頭の中で繰り返しました。
背筋と顎。三十年、王宮で教えてこられた方の教えでございます。悪い教えではございません。ただ、足の話がひとつもございません。
「エルミナ様。合わせ方をお教えすることはできます」
「ありがとうございます」
「ですが、条件がひとつございます」
「なんなりと」
「今日ここへおいでになったことを、隠さないでくださいませ」
エルミナ様が目を見開かれました。
「隠しますと、わたくしが隠れて何かをしていることになります。そうなりますと、あなた様のお立場も悪くなります」
「……堂々と、公爵家の馬車で参りましたわ」
「存じております。ですから、お受けいたします」
エルミナ様が帰られたあと、母が客間へ入っておいでになりました。
茶碗を片づけながら、一度もこちらをご覧になりません。
「マチルデ」
「はい」
「あのお嬢様、いい方でしたね」
「ええ」
「……厄介なことになりましたよ」
母の仰るとおりでございました。
公爵家の馬車がうちの門に停まったという話は、その日のうちに広まりました。
隠さないでくださいませ、と申し上げたのはわたくしでございますから、広まるのは望んだとおりでございます。ただ、広まり方までは望めません。噂は行き先を自分で選びますので。
三日のあいだに、話は二度、形を変えました。
はじめは「公爵家のお嬢様が、詫びに行かれたそうよ」でございました。詫びに行くというのは、非が向こうにあるという意味でございます。
次は「いいえ、踊りを習いに行かれたのですって」に変わりました。習いに行くというのは、教えられる側と教える側があるという意味でございます。
二度目の形になりましたころ、母が青物売りから聞いてこられました。
「マチルデ。あなた、教えているのだと言われておりますよ」
「はい」
「解消なさったのは、リンダール嬢が至らなかったからだと、皆さま仰っていたでしょう」
「ええ」
「今は、そう仰る方が減りましたよ」
母はそれだけ仰って、青物の籠を台所へ運んでいかれました。
わたくしは、玄関の段に少しのあいだ座っておりました。
十年、非がどちらにあるかという話には、証拠というものがございません。証拠がございませんから、声の大きいほうの形に落ち着きます。落ち着いた形を動かすには、また別の話が要るのでございました。
わたくしは何も申し上げておりません。エルミナ様が馬車で門をくぐられただけでございます。
その三日後、王宮から書状が参りました。
差出人は、王宮舞踏教師長ラウレンツ・クヌート様でございます。
当て馬は置かないと決めて書きはじめました。エルミナ様もまた、知らされていない側でございます。最後に知らされる者同士が、卓を挟んで向かい合う回でございました。
お詫びを受け取らないのは、優しさではございません。受け取ってしまえば、この方が何かをなさったことになりますので。
その三日後、王宮から書状が参ります。差出人は、三十年、背筋のことだけを教えてこられた方でございます。




