第6話 殿下は、初めて足を踏みました
招待状は、思いのほか早く届きました。
解消の話が片づいた家の娘を茶会に呼ぶのは、意地の悪いことでも親切なことでもございます。どちらのおつもりかは、行ってみなければわかりません。
わたくしは行くことにいたしました。行かなければ、行かなかったという話になりますので。
会場は伯爵家の北の広間でございます。
高い窓が北に並び、夏でも床が冷えるので有名なお部屋でした。ご婦人がたが「涼しくてよろしいこと」と仰る、あの冷たさでございます。
殿下がお見えになりますと、部屋の温度が一度上がったようになりました。
エルミナ様はその半歩後ろにおいでです。淡い青の裾が、歩くたびに小さく揺れておりました。
わたくしは壁際の椅子におりました。
こういう席で真ん中に出るのは、下手のすることでございます。壁際は物がよく見えますし、誰も長居をいたしませんので、話しかけられても短く済みます。
「リンダール嬢。息災か」
顔を上げますと、殿下が立っておられました。
周りの声が少し引きます。わたくしは立ち上がり、膝を折りました。
「おかげさまで」
「今日は踊らないのか」
「相手がおりませんので」
「そうか。……いや、そうだな」
殿下は言葉をお探しになりました。指が、二度だけ袖口を叩きます。四回に届く前に止まりました。
「マチルデ。あの帳面のことだが」
「はい」
「まだ、読んでいない」
「ご随意にとお願い申し上げました」
「ああ。だが、その、読むべきものかどうかを決めかねている」
「殿下」
「なんだ」
「読まずにお捨てになっても、わたくしは何も申しません」
殿下はしばらくわたくしをご覧になり、それから小さくうなずいて離れていかれました。
歩いていかれる後ろ姿を、つい見てしまいます。左の踵が、床から離れるのが半拍遅うございました。冷えた広間では、いつもより深く出ます。
「リンダール嬢」
ふいに名を呼ばれ、顔を上げますと、エルミナ様がこちらへ来ておられました。
「本日はお招きいただきまして」
「いえ、こちらこそ。……あの」
エルミナ様は言葉を切り、扇を持ち直されました。持ち直す時、握りがずいぶん強うございます。指の節が白くなっておりました。
「わたくし、あなた様に申し上げねばならないことが」
「エルミナ様」
「はい」
「本日は、お踊りになりますでしょう」
「……ええ」
「でしたら、それが済んでからにいたしませんか。お話は、逃げませんので」
エルミナ様は目を伏せ、小さくうなずかれました。
楽が始まりました。
殿下がエルミナ様の手をお取りになり、中央へ出られます。皆さまが下がり、床がひらけました。
わたくしは壁際で見ておりました。
一小節目。殿下の右足が出て、左足が半拍遅れます。北向きの広間で、床は冷えております。冷えた日の遅れは、いつもより深うございました。
エルミナ様は合わせようとなさいました。合わせようとして扇を持つ手に力が入り、肩が上がり、そのぶん足が遅れます。二人とも遅れれば、遅れは倍になります。
二小節目、つま先が触れます。
三小節目、殿下の靴の先がエルミナ様の甲を踏みました。
小さな音でございました。楽の音に紛れる程度の。
けれども見ている者にはわかります。部屋の端のほうで、扇が二つ、同時に開きました。
エルミナ様が止まりかけ、それでも続けようとなさいます。殿下は歩幅を広げてお直しになろうとなさいました。広げれば、狭い側はもっと遅れます。四小節目でエルミナ様の踵が浮き、五小節目で向き変えが崩れました。
楽団が気を利かせて、曲を早めに畳みました。
拍手はございました。ございましたけれど、いつもの拍手ではございません。
殿下は笑っておられます。笑いながら、ご自分の左の靴先を一度だけご覧になりました。
「今日は床が滑るな」
そう仰るお声が、こちらまで届いて参りました。
「ええ、殿下。北の広間は磨きすぎでございますから」
どなたかがそう申し上げ、笑いが起きます。それで場は収まりました。
収まりましたけれど、殿下はもう一度、靴先をご覧になりました。
わたくしは壁際から動きませんでした。
申し上げることは、ひとつもございません。十年ぶんの言葉は、もう帳面ごとお渡ししてございます。
ただ、心の中で数えてはおりました。
一小節目、半拍。二小節目、触れる。三小節目、踏む。
書く紙はもうございませんので、数えても残りません。残らないというのは、思ったより楽なことでございました。
エルミナ様が下がってこられます。
白い頬に赤みが差し、扇の縁が少し折れておりました。
「リンダール嬢」
「はい」
「わたくし、下手でございました」
「いいえ」
「慰めは結構ですわ。踏まれたのはわたくしの足でございますもの」
わたくしは首を振りました。
「エルミナ様。踏まれたほうが下手だということは、ございません」
エルミナ様が顔を上げられました。
「エルミナ様は、二小節目でつま先が触れた時、下がってお直しになろうとなさいました」
「……ええ。よく見ておいででしたのね」
「あれは正しい判断でございます。下がれば当たりません」
「けれど、崩れましたわ」
「下がったぶん、次の一歩をご自分で広げようとなさいましたので。歩幅を途中で変えますと、必ず遅れます」
エルミナ様は自分の靴の先をご覧になりました。淡い青の裾の下から、白い爪先が少しだけ覗いております。
「わたくしの歩幅が、いけませんの」
「いいえ。歩幅は変えずに済ませる回り方がございます」
「……では、どちらが」
そこまで仰って、口を閉じられます。
賢い方でいらっしゃいます。言ってはいけないことの手前で、きちんと止まられました。
背後で、扇の陰の声が聞こえて参ります。
「殿下、お珍しいこと」
「床が滑ったのでしょう」
「ええ、床が」
「けれど、去年の冬の舞踏会でも、少しお危なげでしたわね」
「そうでしたかしら」
「わたくし、そう覚えておりますの」
声はそこで止みました。
噂というものは当人より先に歩くと申し上げましたけれど、今日は行き先が変わったようでございます。行き先が変わるのに、たった一小節あれば足りるのでした。
「先ほどのお話、伺ってもよろしゅうございますか」
わたくしがそう申し上げますと、エルミナ様は扇を下ろし、それから小さな声で仰いました。
「近いうちに、お宅へ伺ってもよろしいでしょうか」
「今日は床が滑るな」。ちなみに北の広間の床は、去年も同じように磨いてございました。
どなたも嘘は仰っておりません。ただ、十年ぶん誰かが黙って埋めていたものは、埋める人がいなくなった日に、一小節目からきちんと出て参ります。踏まれたほうが下手だということは、ございません。
噂の行き先が変わるのに、たった一小節あれば足りるのでした。次は、公爵家の馬車が伯爵家の門をくぐります。




