第5話 はじめての生徒
リンダール家の広間は、舞踏場としては小さうございます。
絨毯を巻き上げ、椅子を壁際に寄せますと、大人が四人でようやく回れるほどの床が出て参りました。母は最後まで渋っておりましたけれど、絨毯を運ぶのは手伝ってくださいました。
オルガ様は約束の刻限より早くお見えになりました。
「早くございましたわ」
「ええ、存じております」
「早いのは失礼ですの」
「いいえ。今日は都合がようございます」
わたくしは紐と白墨を用意しておりました。
紐は台所からもらった荷造り用のもの、白墨は弟の勉強部屋から借りたものでございます。どちらも上等ではございません。
上等でなくてよいのでございます。上等なものを使いますと、道具のほうが偉くなります。測るのは足でございますから、道具は足より下でなければなりません。
「まず、そこに立ってくださいませ」
「はい」
「いつもどおりに、三歩だけ歩いてくださいます?」
オルガ様は三歩お歩きになりました。歩いたというより、床を確かめるような足取りでございます。
わたくしはその三歩ぶんを紐で取り、床に白墨で線を引きました。
「オルガ様の一歩は、わたくしの一歩より指二本ぶん狭うございます」
「狭い。……いけませんの」
「いいえ。狭い足には狭い足の回り方がございます。いけないのは、狭い足で広い足の回り方をなさることでございます」
オルガ様が線をご覧になりました。白墨の粉が靴の先についております。
「姉は、どちらでしたの」
「お姉様のお歩きになるところを存じ上げませんので、わかりかねます」
「……そう」
「ですが、転ぶ方の多くは、ご自分の歩幅より広く出ようとなさっておいでです。大きく回れば上手に見えると教わりますから」
オルガ様は口を結ばれました。それから、小さく仰いました。
「姉も、そう教わっておりましたわ」
わたくしは白墨で、床に四つの点を打ちました。
「では、この点だけを踏んでくださいませ。音は取らなくてよろしゅうございます」
「音を取らずに、踊れますの」
「今日は踊りません。歩くだけでございます」
オルガ様は点を踏まれました。一度目は二つ目で足が止まり、二度目は三つ目で線を越えられます。
六度目に、四つとも踏めました。
「できましたわ」
「ええ」
「では、次は」
「もう一度、同じことを」
「……同じことを?」
「はい。十度ほど」
七度目で、オルガ様の足が止まりました。
止まったきり、動かなくなります。点は目の前にございますのに、靴の先が床から離れません。
「オルガ様」
「……いや」
「はい」
「いや、無理。無理です」
令嬢言葉が落ちておりました。落ちた時のほうが、ずっと大きな声でございます。
わたくしは白墨を置き、オルガ様の隣に立ちました。同じほうを向いて、同じ点を見ます。
「無理でございますね」
「……え」
「今は無理でございます。ですから、今は歩かなくてよろしゅうございます」
「……よろしいんですの」
「ええ。線は逃げません。明日も明後日も、そこにございます」
オルガ様は肩を落とし、それからしばらく黙っておいででした。
「姉は、あの時、止まったんですの」
「さようでございますか」
「大広間の真ん中で。止まって、それから動こうとして、転びました」
「はい」
「わたくし、笑い声のほうを覚えておりますの。誰が笑ったかは覚えておりませんのに、音だけ覚えておりますわ」
わたくしは何も申しません。慰めを申し上げれば、この方は「結構ですわ」と仰るでしょう。
しばらくして、オルガ様がご自分から一歩お出しになりました。
点の上でございました。
十度のあいだに、オルガ様の顔から力が抜けて参りました。
力が抜けますと、歩幅が揃います。歩幅が揃いますと、点を見なくても足が行くようになります。そうなったところで、わたくしは口で拍を出しました。
「一。二。三。四」
オルガ様の足が、点の上を渡って参ります。
「一。二。三。四」
二度目の四で、オルガ様が笑われました。笑って、その拍子に足が止まります。
「止まってしまいましたわ」
「ええ。笑うと止まります。皆さまそうでございます」
「皆さま。……ほかにも生徒がおいでですの」
「いいえ。オルガ様がはじめてでございます」
オルガ様は白墨の線を見下ろし、それから足の先でそっと撫でられました。線が半分だけ消えます。
「リンダール様。この線は、いつまで引くんですの」
「消えるまででございます」
「消えたら、どうなりますの」
「線を引かずに踊れるようになったということでございます」
その日、最後にもう一度だけ通します。
一小節。たった一小節でございます。けれどもその一小節のあいだ、オルガ様の足はわたくしの声と合っておりました。合っていた、というのは、わたくしが合わせなかった、という意味でございます。
十年、わたくしは合わせる側におりました。合わせずに済んだのは、この日がはじめてでございました。
扉のところに、母が立っておりました。
いつからおいでだったのかはわかりません。絨毯を巻き上げるのを手伝ってくださった時と同じ顔で、床の白墨をご覧になっておられます。
「マチルデ」
「はい、お母様」
「その線は、あとで消えますか」
「ええ。水で拭けば落ちます」
母はうなずき、それだけ仰って下がっていかれました。およしなさい、とは仰いませんでした。
帰り支度をしながら、オルガ様が思い出したように仰いました。
「そういえば、来週の茶会に殿下がおいでになるそうですわ」
「さようでございますか」
「エルミナ様とお踊りになるのですって。皆さま、そのためにいらっしゃるとか」
わたくしは絨毯の端を持ち上げ、床の白墨を隠しました。
「そう」
「……気になりますでしょう」
「いいえ」
「本当に?」
「本当に」
「わたくしでしたら、気になりますわ。悔しくて眠れません」
「オルガ様は、まっすぐでいらっしゃいますね」
「褒めておいでですの、それ」
「褒めております」
オルガ様は納得のいかない顔で帽子をかぶられました。
悔しくないわけではございません。ただ、悔しさというのは、どこかに置いておかないと手がふさがるものでございます。手がふさがっておりますと、紐も白墨も持てません。
嘘ではございません。
気になっておりましたのは、来週が北向きの広間だということでございました。あの広間は、夏でも足元が冷えます。
白墨と、台所の荷造り紐。上等なものを使いますと、道具のほうが偉くなってしまいます。
「いや、無理」と令嬢言葉が落ちる音が、この回でいちばん書きたかったところでございました。笑うと止まります。皆さま、そうでございます。
本日ぶんはここまで。明日からは一日一話ずつ、来週の茶会へ参ります。北向きの広間は、夏でも足元が冷えるお部屋でございます。
ブックマークと評価は、弟の勉強部屋からお借りしたままの白墨をお返しする費用に充てさせていただきます。




