第4話 拍を刻む人
王宮へもう一度参りましたのは、返すものが残っていたからでございます。
婚約の折にいただいた指輪と、十年ぶんの書簡。書簡は父が数えて、百四十二通ございました。家と家のあいだで行き来したものは、家と家のあいだで片づけるのが作法でございます。
受付の間で目録に署名をいたしますと、それで用は済みます。帰り道、東の回廊を歩いておりますと、壁の向こうから弦の音が聞こえて参りました。楽団の稽古でございます。
わたくしは足を止めました。
止めるつもりはございませんでした。ただ、聞こえてきたのが三拍子で、しかも二拍目がわずかに重かったのでございます。重い、と申しますのは、そこにいる誰かが少し急いでいるという意味でございます。
こういうことに気がついても、もう何の役にも立ちません。役に立たない癖ほど、なかなか抜けないものでございました。
「二拍目が気になりますか」
振り向きますと、回廊の柱の陰に、黒い上着の方が立っておられました。
肩に弓を掛け、袖を捲っておいでです。楽団の首席奏者のアンゼルム様でございました。
「……立ち聞きをいたしました。失礼を」
「聞かれて困る稽古はしておりません」
アンゼルム様は柱から離れ、稽古場の扉を少しだけお開けになりました。音が大きくなります。
「二番の弾き手が新しく入りましてね。まだ息を吸う位置が合わない。それだけです」
「息を吸う位置」
「弦は指で鳴りますが、拍は息で決まります。吸う位置がずれる人は、必ず先へ行きます」
わたくしは、返す言葉を探しました。
探しているうちに、アンゼルム様のほうが先に仰いました。
「リンダール嬢。あなたは楽団の拍ではなく、殿下の拍で踊っていましたね」
回廊の石が、急に硬くなったような気がいたしました。
「……何のお話でしょう」
「十年、舞台の上から見ておりました。舞踏の相手は、たいてい楽団を聞いています。あなたは聞いていない。あなたが聞いていたのは殿下の足音です」
「そのようなことは」
「三度目の向き変えで、あなたはいつも半分だけ内へ入る。こちらが速度を上げても、あなたの内側だけは動かない。あれは楽を聞いている人の動きではありません」
わたくしは黙っておりました。
十年、どなたにも申し上げなかったことでございます。申し上げなかったのに、この方は端から見ていらした。
「どうして、これまで何も仰らなかったのですか」
「言って差し上げるべきことでしたか」
「……いいえ」
「そうでしょう。あなたが黙っておられるものを、私が言葉にする筋合いはありません」
アンゼルム様は弓を持ち替えられました。
「ですが、婚約が解かれたと聞きました。ならば、もう筋合いも何もありませんね」
稽古場のほうで、二拍目がまた重くなりました。
アンゼルム様が扉の隙間から中をご覧になり、それから小さく息を吐かれます。
「リンダール嬢。ひとつお願いがあります」
「わたくしにできることでしたら」
「二番の弾き手に、歩かせてやっていただけませんか」
「歩く」
「拍が取れない人間に、拍を数えろと言っても直りません。あの子は音の話として聞いてしまう。ですが、歩数の話にすれば、身体のほうが先に覚える。……あなたなら、それができるでしょう」
わたくしは、しばらく答えられませんでした。
「アンゼルム様。わたくしは踊りの教師ではございません」
「私も教師ではありません。ただの弾き手です」
「それでも、あなた様には楽団という所属がございます。わたくしには何もございません」
「所属がなければ、人にものを教えてはいけませんか」
答えられません。答えられないまま、その日の午後は稽古場の隅におりました。
二番の弾き手は、ハンナ様という二十歳ほどのご婦人でございました。
「あの、わたくし、歩くのは苦手でして」
「歩くのが苦手な方はおいでになりません。歩幅をご存じないだけでございます」
「歩幅」
「一歩が何指ぶんか、測らせていただいてもよろしゅうございますか」
紐を借り、床で三歩ぶんを取りました。
「では、この長さで四歩。一小節に四歩でございます」
「四歩……弾きながら、ですか」
「いいえ。弾かずに、まず歩くだけでございます」
ハンナ様は楽器を置き、床を歩かれました。
三歩目で早くなります。四歩目でもっと早くなります。急いでいるのではなく、先に着いてしまうと安心なさるのでございましょう。
「ハンナ様。息はどちらで吸っておいでですか」
「息……考えたことがございません」
「では、今から一歩目の前で吸ってくださいませ。吸ってから出る。それだけでございます」
二十度ばかり繰り返しました。
十五度目あたりで、足音の間隔が揃って参ります。揃ってから楽器をお持ちいただきますと、二拍目の重さが消えておりました。
「……あら」
「いかがですか」
「弓は何も変えておりませんのに」
「弓は最初から合っておりましたので」
柱のところでアンゼルム様が腕を組んでおられました。何も仰いません。仰らないまま、稽古の続きへ戻っていかれました。
帰り際、アンゼルム様が扉のところまで送ってくださいました。
「明日も来られますか」
「……お邪魔でなければ」
「拍はこちらで出します。あなたは数えなくていい」
その言い方が、なぜだかしばらく耳に残っておりました。
帰りの馬車で、わたくしは今日のことを順に思い返しておりました。
紐を借り、三歩を測り、息を吸う位置を決めた。それだけでございます。十年やってきたことを、初めて他人に向けて使いました。
ひとつ、わかったことがございます。殿下に合わせていた時、わたくしは自分が何をしているのか申し上げたことがございませんでした。申し上げなかったのは角が立つからだと思っておりましたけれど、それだけではございません。言葉にできなかったのでございます。
今日、ハンナ様には言葉にできました。三歩、四歩、息はここ。たったそれだけの言葉で、拍が直りました。
十年ぶんの手癖は、こういう形をしていたのだと、二十一にして初めて知りました。
屋敷に着きますと、玄関に弟が立っておりました。
「姉上。今日は遅うございましたね」
「ええ。王宮で少し」
「王宮。……もう行かれることもないと思っておりました」
わたくしも、そう思っておりました。
拍は指ではなく息で決まる、というのは、実際に楽をなさる方から伺った話でございます。急ぐ人はたいてい、息を吸う位置が早い。
マチルデが十年やってきたことに、この回でようやく名前がつきます。名前のつかない苦労は、労とは呼ばれず、才と呼ばれるものでございます。「君は数字が得意だから」というのは、そういうお言葉でございました。
次は、絨毯を巻き上げます。舞踏場としては、たいそう小さうございます。




