第3話 合わせていたのは、どちらでしょう
噂というものは、当人より先に歩くのでございます。
婚約の解消が正式に告げられましたのは五日後でしたけれども、その三日前には、もう園遊会の芝生の上を歩いておりました。
「十年もお待たせして、結局お応えできなかったのですって」
「まあ。それでは、あちらのご不首尾ということ」
「殿下のほうから、とは仰らなかったそうですわ。リンダール嬢からお願いしたと」
「そうでしょうとも。そう申し上げるものですもの」
その日の園遊会には、行かないという道もございました。
欠席すれば「傷ついている」と読まれます。出席すれば「厚かましい」と読まれます。どちらに転んでも読まれるのでしたら、読まれ方の軽いほうを選ぶのが得でございます。母は最後まで反対しておりましたけれど、支度を終えて玄関に立ちましたら、黙って襟元を直してくださいました。
芝生はよく刈られ、日差しがまだ強うございます。
わたくしは白い天幕の下で、冷めかけたお茶をいただいておりました。
こういう時にお茶をいただくのは、口をふさぐためでございます。何も申し上げなければ、話は勝手に形を得て、勝手に落ち着きます。落ち着いた形が正しいかどうかは、また別の話でございました。
「リンダール嬢」
初老のご夫人が近づいてこられました。
「お気を落とされませんように。若い方には、若い方のご縁がございますからね」
「ご心配をおかけいたします」
「ええ、ええ。それにしても十年は長うございましたわねえ」
わたくしは頭を下げました。長うございました、と申し上げるのが正しいのか、あっという間でしたと申し上げるのが正しいのか、まだ決めかねておりました。
天幕の向こうで、扇が三つ寄り集まっております。
「けれど、踊りだけは合っていらしたわね。お気の毒に」
「あれは殿下がお上手なのですわ。どなたとでも踊れる方でいらっしゃるもの」
「そうそう。エルミナ様とも、それはお楽しそうで」
その時でございます。
「では、どなたが数えていらしたんですの」
小さな声でございました。小さいのに、芝生の上をまっすぐ渡って参りました。
扇が三つとも止まります。振り向きますと、天幕の縁に、緑の服を着た小さなご令嬢が立っておいででした。十三、四でいらっしゃいましょうか。手袋を握りしめておいでで、その手が白くなっております。
「あら。ザントナー家のお嬢様?」
「オルガと申しますわ。それで、どなたが数えていらしたのかと伺っております」
「数える、とは何のことかしら」
「拍でございます」
オルガ様は一歩前へお出になりました。
「わたくし、去年の冬の舞踏会で、リンダール様のつま先をずっと見ておりました。殿下の左足が遅れるたび、リンダール様が先にお動きになるのです。四回に一度は必ず。数えましたもの」
扇の陰から、返ってくる言葉がございませんでした。
「……あら、まあ。子どもの目には面白いものが映るのねえ」
「わたくし、そのために踊りを見に行くのでございます」
「ええ、ええ。ご立派ですこと」
三人はゆっくり離れていかれました。負けたわけではございません。ああいう場では、離れた側が勝ちでございます。
オルガ様はまだ手袋を握っておいででした。
「オルガ様」
「……はい」
「ありがとうございます」
「お礼を言われる筋合いはございませんわ。わたくしは本当のことを申し上げただけですもの」
「ええ。ですから、ありがとうございます」
オルガ様は口を開き、それから閉じられました。目のふちが赤くなっております。怒っておいでなのだと、しばらくしてから気がつきました。わたくしのために怒っておいでなのでした。
「あの方たち、どうしてリンダール様が悪いことになるんですの」
「そういう作法だからでございます」
「作法」
「解消のお話は、たいてい娘の側からお願いしたことになります。そのほうが角が立ちませんので」
「角が立たないのは、どなたですの」
わたくしは答えられませんでした。
オルガ様は芝生を一度蹴って、それからわたくしを見上げられました。
「リンダール様。わたくし、来月に初めての舞踏会がございます」
「まあ。おめでとうございます」
「めでたくありません。わたくし、人前だと足が動かなくなるんです」
握りしめた手袋が、いよいよ皺だらけになっております。
「姉が三年前に、大広間の真ん中で転びましたの。皆さま、笑いましたわ」
「……さようでございましたか」
「ですから」
オルガ様は息を吸い、それから一息に仰いました。
「わたくしに、教えてくださいませんか。数える踊り方を」
風が天幕の布を鳴らしました。
わたくしは、すぐにお答えできませんでした。
数える踊り方、という言い方を、これまで誰もなさったことがございません。わたくし自身も、そう呼んだことがございませんでした。あれはわたくしの手癖で、隠しておくべき不作法で、上手な女がやることではない、というのが十年の理解でございます。
その手癖に、この十三の方は名前をおつけになりました。
「オルガ様。それは、あまり上品なやり方ではございませんのよ」
「上品でしたら、姉は転びませんでしたわ」
言い返す速さだけは一人前でいらっしゃいます。
「わたくし、上手になりたいのではありません。転ばずに、最後まで踊りたいのです。それだけですの」
わたくしはお茶を置きました。
十年ぶんの帳面は、もう手元にございません。けれども、書いてあったことは全部覚えております。覚えていることは、誰にも返せと言われないものでございました。
「歩幅を測らせていただくことになりますけれど、よろしいですか」
「はかる」
「紐と白墨を使います。ご自分の一歩が何指ぶんかを知らないうちは、どなたにも合わせられませんので」
オルガ様の目が、大きくなりました。
「ご自分の、と仰いました」
「はい」
「合わせるお話ではなくて」
「まずはご自分の歩幅からでございます。オルガ様の一歩を知っているのは、この世でオルガ様おひとりですから」
オルガ様はしばらく黙って、それから深く頭を下げられました。
握りしめておいでだった手袋が、ようやく手を離れて地面に落ちます。拾って差し上げますと、皺の寄った布の内側が、じっとりと湿っておりました。
帰りの馬車で、母に今日のことを申しました。
「ザントナー家の。あの、お姉様が転ばれた」
「はい」
「よそ様のお嬢様に踊りを教えるなど、聞いたことがございませんよ」
「ええ。わたくしも聞いたことがございません」
「なら、およしなさい」
母は窓のほうを向いておしまいになりました。心配しておいでなのはわかります。娘が婚約を解いた月に、風変わりなことを始めたと言われては、下の弟の縁談に障りますので。
わたくしは、返事をいたしませんでした。
噂は当人より先に歩くと申し上げましたけれど、歩いていくのは噂だけでございます。あの方の一歩が何指ぶんかは、噂には測れません。
オルガ様は、扇三つの真ん中へ割って入るところだけ決めて置きました。あとはご本人が勝手にお喋りになります。十三歳、言い返す速さだけは一人前。作者は書き取り係でございました。
もっとも、握りしめた手袋の内側は湿っております。口が悪いのは、たいてい怖さの裏返しでございますので。
次は、十年ずっと客席ではなく舞台の側から見ていた方が、ひとりだけ口を開きます。




