第2話 歩幅帳をお返しします
王宮までは、馬車で四半刻ほどでございます。
その四半刻のあいだに、わたくしは三つのことを決めました。泣かないこと。言い訳をしないこと。そして、帳面を持って行くこと。
三つ目だけは、朝からずっと迷っておりました。持って行けば、十年のあいだ黙っていたことを差し出すことになります。黙っていたのは、殿下のためというより、そうするのが上手な女のやり方だと教わったからでございました。
膝の上で包みの結び目を確かめ、それきり触らないことにいたしました。
王宮の小広間には、卓がひとつと椅子が三脚だけ置かれておりました。
殿下がお座りになり、その斜め後ろに侍従長のギルベルト様が控えておいでです。わたくしの椅子は、卓を挟んだ向かいにございました。
「よく来てくれた」
「お呼びとありましたので」
お茶が運ばれ、下がっていきます。扉が閉まる音を待ってから、殿下が口を開かれました。
「先夜、エルミナ嬢と踊った」
「拝見しておりました」
「あれは、その、なんと言えばいいのか」
殿下は言葉をお探しになりました。お探しになる時、殿下は指で卓を叩かれます。四回で一度止まり、また四回。それも帳面に書いてあることでございました。
「初めて、自然に踊れた気がしたのだ」
わたくしは膝の上で手を重ねました。
「さようでございますか」
「君との十年が悪かったという話ではない。ただ、あれは違ったのだ。私が導いて、相手が応える。踊りとはああいうものかと、二十四にして初めて思った」
侍従長が咳払いをなさいました。
「殿下。順を追ってお話しくださいませ」
「ああ。……マチルデ。婚約について、考え直したいと思っている」
言い終えて、殿下はわたくしをまっすぐご覧になりました。目を逸らされないのは、この方の美点でございます。悪意がない、というのは、たいていこういう顔をしております。
わたくしは、そこで一度、息を整えました。
ここで泣けば、話は長引きます。怒れば、家が傷を負います。十年ぶんの言い分を並べれば、並べたぶんだけ「見苦しい」という言葉が返って参ります。家格の作法では、こういう場の非は娘の側に置かれることになっておりますので。
ですから、わたくしは先に申し上げました。
「殿下。婚約の解消を、わたくしのほうからお願い申し上げます」
殿下の指が止まりました。
「……君から」
「はい。わたくしから」
「待て。それでは君の家が」
「家のことは父が申します。わたくしが申し上げているのは、わたくしのことでございます」
侍従長が目を細めてわたくしを見ておられました。書き留めるべき言葉かどうか、量っておられるお顔でございます。
わたくしは膝の上の小さな包みを解き、帳面を卓に置きました。
表紙も題もない、指の腹ほどの厚みの帳面でございます。
「これは」
「お返しいたします」
「返す。私は、これを君に渡した覚えはないが」
「ええ。ですから正しくは、お渡しする、でございましょうね」
わたくしは帳面を殿下のほうへ滑らせました。
「殿下の歩幅と拍を書いてございます。十年ぶん、四百十二回でございます」
「四百……」
「初めてご一緒したのが十一の春、最後が先夜。数え違いはございません。舞踏会のたびに書いておりましたので」
殿下は帳面に手を伸ばし、途中で止め、それからお開きになりました。
紙面には日付と、短い行が並んでおります。
左足、半拍。歩幅、指三本。三度目の向き変えで一本伸びる。修正、踵半分。
同じような行が、四百十二ぶん。
殿下は最初の頁をご覧になりました。
十一の春。文字はまだ丸うございます。歩幅、大きい。追いつけない。足が痛い。
その次の頁。歩幅、指五本。半分だけ内へ入れると届く。
三年目のあたりから、行が短くなって参ります。書くことが減ったのではなく、書かなくてもわかるようになったからでございました。
六年目には、こうございます。左足、半拍。以下同じ。
以下同じ。その一行が、そこから百頁ほど続きます。
「これは……何の数字だ」
「殿下の左足は、右足より半拍だけ遅れて床を離れます」
殿下が顔をお上げになりました。
「そんなはずはない。誰にも言われたことがない」
「はい。どなたも仰いません。申し上げると、角が立ちますので」
「では、なぜ君は」
「合わせるためには、知っている必要がございました。それだけでございます」
部屋が動かなくなりました。侍従長が一歩前に出かけ、思い直したように退がられます。
殿下はもう一度、紙面をご覧になりました。
「では、私は、十年」
「殿下はよく踊っておいででした。それは本当のことでございます」
「そういうことを聞いているのではない」
「わたくしが申し上げられるのは、そこまででございます」
わたくしは立ち上がり、膝を折りました。
「その帳面は、王家の記録ではございません。わたくしの紙に、わたくしが書いたものでございます。ですからお返しするのではなく、差し上げるのが正しいのでしょう。どうぞご随意になさってくださいませ」
「マチルデ」
「十年、ありがとうございました」
扉まで七歩ございました。歩幅を数える癖は、こういう時にも抜けないものでございます。
背中のほうで、紙をめくる音が一度だけいたしました。
廊下へ出ますと、侍従長が追っておいででした。
「リンダール嬢。ひとつ伺いたい」
「はい」
「あの帳面のこと、これまで誰かにお話しになりましたか」
「いいえ」
「ご家族にも」
「申しておりません」
侍従長はしばらく黙っておられました。この方は三十年、王宮の記録を扱ってこられた方でございます。何が記録で、何が記録でないかを、日々選り分けておられるのでしょう。
「なぜ、今日お出しになったのです」
「お返しするものが、それしかございませんでしたので」
「指輪も、書簡も、十年ぶんおありでしょう」
「あれは家と家のものでございます。わたくしのものは、あの帳面だけでした」
侍従長は小さく息を吐き、それから深く頭を下げられました。
王宮の侍従長が伯爵家の娘に頭を下げるのは、作法から申しますと行き過ぎでございます。わたくしは慌てて膝を折りました。
「お顔をお上げくださいませ」
「失礼を。……お気をつけてお帰りを」
馬車に乗り、窓の外を見ておりました。
王宮の門を出るまでのあいだ、涙は出て参りませんでした。決めた三つのうち、ひとつは守れたことになります。
膝の上に、もう包みはございません。手のひらが妙に軽うございました。
十年ぶんを一冊にして卓へ滑らせるところだけは、書く前から決まっておりました。
ただ、いざ書いてみますと、マチルデが「お返しする」ではなく「差し上げる」と言い張るのでございます。返したものは戻って参りますが、差し上げたものは戻って参りません。この方、作者より一枚上手でいらっしゃいました。
手のひらは軽くなりました。かわりに、噂が歩きはじめます。噂は当人より足が速うございます。




