第1話 十年ぶんの拍
全十五話・完結済のお話でございます。本日は第一話から第五話まで、以降は毎日一話ずつ更新いたします。
殿下の左足は、いつも半拍だけ遅れて参ります。
わたくしはその半拍を、自分の右足で埋めております。十年のあいだに四百十一回。今夜で、四百十二回目でございました。
王宮の大広間には、蝋燭が三百と少し灯っておりました。楽団が二曲目に入り、床の中央がひらけます。
テオドリク殿下がわたくしに手を差し出されました。二十四におなりになる王太子殿下は、背が高く、肩の線がまっすぐで、こうして立っていらっしゃるだけで絵になる方でございます。
わたくしは膝を折り、その手をお取りいたしました。
「今夜は人が多いな」
「ええ。北の三家が久しぶりに揃っておいでですから」
「北の。ああ、そうか。冬の税の話をしに来たのだな」
「わたくしにはわかりかねますけれど、皆さま、よく召し上がっておいででしたわ」
殿下が小さく笑われました。それで肩の力が抜けたのが、手のひらから伝わって参ります。
弦が下りて、殿下の右足が出ました。ここまではよろしいのです。
問題はその次でございました。
殿下の左足は、右足より半拍だけ遅れて床を離れます。ご本人はまったくお気づきになりません。ですからわたくしのほうが半拍だけ早く体を送り、遅れて出ていらした左足を迎えに行くのです。
迎えに行った、と申しましても、傍から見れば何も起きておりません。ただ二人が踊っているだけに見えます。そう見えるように十年かけて調えて参りましたので、そう見えるのが正しいのでございました。
「マチルデ、少し速いか」
「いいえ。楽団がわずかに急いでおりますだけです」
「君はいつもそう言うな」
「本当のことを申しておりますもの」
三度目の向き変えで、殿下の歩幅がすこし伸びました。
殿下の歩幅は、わたくしより指三本ぶん広うございます。伸びた時は四本になります。わたくしは踵の位置を半分だけ内へ入れ、四本ぶんを三本に戻しました。
こういうことを、曲のあいだじゅう続けております。
「マチルデ」
「はい」
「君と踊るのは楽だ。昔からそうだった」
わたくしは、ほんの少しだけ返事が遅れたと思います。
「……光栄でございます」
「北の連中と踊ると、どうも合わなくてな。私が悪いのかと思ったが、君とはこうして合う。だから相手のほうだろう」
「そういうこともございましょう」
殿下は満足そうにうなずかれ、次の向き変えへ入られました。左足はまた半拍遅れ、わたくしはまた迎えに行きます。
曲が終わり、拍手が起こりました。
壁際へ下がりますと、扇の陰から声が届いて参ります。
「相変わらずお上手ですこと、殿下は」
「リンダール嬢もお幸せね。あんなに上手な方と十年もご一緒で」
「ええ、まったくでございます」
わたくしはそう申し上げて、頭を下げました。
上手なのは殿下だ、という意味のお言葉でございます。それでよろしいのです。十年、そのために調えて参りました。
三曲目が始まりますと、殿下は公爵家のエルミナ様に手を差し出されました。
十八におなりのエルミナ様は、背筋のきれいな、まだ少し細い肩をした方でございます。お二人が中央へ出ますと、広間がわずかにざわめきました。
わたくしは足元を見ておりました。
一小節目で、やはり半拍が出ます。エルミナ様は懸命に合わせようとなさいました。合わせようとして肩に力が入り、その力のぶんだけ、かえって遅れておしまいになります。二小節目でつま先が触れ、三小節目で向き変えが浅くなりました。
どう見ても、合っておりません。
それなのに、殿下のお顔は明るいのでございます。
声を立てて何かを仰り、エルミナ様が赤くなって俯かれ、殿下がまた笑われました。楽しんでいらっしゃるのが遠目にもわかります。
わたくしは、その理由を考えておりました。そして、考えるまでもないことに気がつきました。
合わない相手と踊ると、人は自分で導かねばなりません。導いている、という手応えが残ります。
わたくしと踊っていらっしゃるとき、殿下にその手応えはございません。何もしなくとも合ってしまうのですから。
「あら」
扇の陰で、どなたかが呟かれました。
「殿下、あちらのほうが楽しそうですこと」
「まあ、そんな。お口が過ぎますわ」
わたくしは何も申しませんでした。申し上げるべきことが、ひとつもございませんでしたので。
舞踏場を下がる間際、楽団のほうを見ました。
弓を下ろした首席奏者と、目が合ったような気がいたします。アンゼルムという名の方でございました。すぐに視線を外されましたので、気のせいかもしれません。
帰りの馬車は揺れが少なく、字を書くにはちょうどよいのでございます。
わたくしは膝の上で小さな帳面を開き、車内灯へ寄せました。表紙も題もない、指の腹ほどの厚みの帳面でございます。紙はわたくしが買ったもの、綴じたのもわたくしでございました。
四百十二。
左足、半拍。三度目の向き変えで歩幅が指一本ぶん伸びる。修正は踵半分。
それだけ書いて、少し考えます。
この十年、同じことを書いた回がいくつもございました。けれども今夜は、書き足したいことがひとつございます。
左足、冬に強く出る。
なぜ冬なのかは存じません。存じませんけれども、十年見ておりますと、寒い季節ほど遅れが大きくなることは間違いございませんでした。殿下ご自身がそれを口になさったことは、一度もございません。
帳面を閉じ、指で厚みを確かめます。あと十年書いても、この厚みの倍にはならないでしょう。それでよいのだと思っておりました。
翌朝、王宮から使いが参りました。
朝食のさなかに封を開いた父の手が止まり、それからわたくしのほうへ紙を滑らせます。
——婚約の件につき、御息女とお話ししたい。
「……マチルデ」
「はい、お父様」
「お前、何か心当たりはあるか」
「ございません」
母が息を呑みました。
「あなた、これはどういう。十年ですよ。十年お待ちしたのですよ」
「静かに」
父は紙を折り、それきり何も仰いませんでした。母の手が卓の上で震えております。わたくしはその手に自分の手を重ねました。
「お母様。まだ何も決まっておりません」
「けれど、こういうお手紙は」
「ええ。存じております」
こういうお手紙が何を意味するかは、社交界に十年おりますればわかります。呼ばれる側は、たいてい最後に知らされるのでございます。
わたくしは紙をもう一度読みました。
思い出しておりましたのは、昨夜書いたばかりの一行でございます。
左足、冬に強く出る。
まだ夏でございました。
お読みくださいまして、ありがとうございます。
この話は「半拍」という一語だけを決めて書きはじめました。遅れている人がいれば、たいてい、遅れていないことにしている人がおります。その方の手元を十五話ぶん覗く話でございます。
マチルデが最後に書き足したのは「左足、冬に強く」の一行。まだ夏でございました。翌朝、王宮から使いが参ります。呼ばれる側は、たいてい最後に知らされるのでございました。




