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3話

 『土蜘蛛』の動きは、その巨体からは想像もつかないほど速かった。

 蓮が踏み込もうとした瞬間、蜘蛛の腹部から粘着性の高い白い糸が弾丸のように放たれた。

「くっ……!?」

 咄嗟に錆びた剣で薙ごうとしたが、糸は剣を絡め取り、そのまま蓮の右腕を壁に縫い付けた。

 間髪入れず、土蜘蛛の鋭利な脚――鋼鉄の槍にも等しい八本の脚が、蓮の腹部を容赦なく貫く。

「ごふっ……!!」

 口から大量の鮮血が溢れる。腹を貫いた脚がさらに内臓を掻き回すような不快な振動が伝わり、蓮の意識が飛びかける。

 土蜘蛛は勝利を確信したのか、さらに数条の糸を吐き出し、宙吊りになった蓮を逃がさぬよう幾重にも巻き付け、繭のように包み込み始めた。

「キィ、キキキ……ッ!」

 蜘蛛の牙が、蓮の首筋に突き立てられる。そこから注入されるのは、肉を内側からドロドロに溶かす強力な消化液。

 全身を走る、焼火箸を直接内臓に押し当てられたような激痛。

 筋肉が融解し、骨が自身の重さに耐えきれず軋む音が聞こえる。意識が混濁し、視界の端から真っ暗に染まっていく。

(……ああ、やっぱりダメなのか。俺みたいな無能が、ちょっと力を手に入れたくらいで、調子に乗るから……)

 死の安らぎが誘いかけてくる。だが、意識が消える寸前、脳裏にあの光景が鮮明にフラッシュバックした。

 

 奈落に突き落とされる瞬間、安全な場所から見下ろしていたカトウの、あの「ゴミを見るような」清々しい笑顔。

 「助けてくれる」と信じていたのに、一度も振り返らずに逃げていったマイの後ろ姿。

(……ふざけるな。あいつらは今、温かい火の側で、俺の死を笑い話にしてるんだぞ……!)

 怒りが、消化液の痛みを一瞬だけ上回った。

 

「……まだだ。まだ……喰い足りねぇんだよッ!!」

 蓮は、唯一動く左手で、自分に突き刺さっている蜘蛛の脚を力任せに掴んだ。

 指が脚の鋭い棘で裂け、自身の血が吹き出す。だが、構わずに引き寄せる。

「『ドレイン』……全開だああああああ!!」

 これまでの魔物とは比較にならない、膨大なエネルギーの奔流。

 ドロドロに溶けかけていた蓮の内臓が、強引に吸い上げた生命力によって強制的に作り直されていく。

 バキバキと音を立てて骨が接合し、焼けるような痛みを伴いながら神経が繋ぎ直される。

 土蜘蛛が異変を察知し、慌てて脚を引き抜こうとしたが、もう遅い。

 蓮の左手は万力のような力で蜘蛛の脚を固定し、さらに突き立てられた牙ごと、自らの首を蜘蛛の頭部へと押し付けた。

「離さねぇ……。次は俺が、お前を溶かす番だ……っ!」

 蜘蛛の猛毒が流れ込む先から、蓮はそれを「糧」へと変換していく。

 破壊と再生の無限ループ。

 肉が腐り、再生し、また溶かされ、再構築される。

 数秒の間に、一生分の死と生を繰り返すような絶望的なサイクルが、蓮の精神を磨り潰していく。あまりの苦痛に、蓮の喉からは人間らしい叫びは消え、獣のような咆哮が漏れた。

 

 やがて、極限の痛みの中で蓮の精神は一度完全に「壊れた」。

 恐怖も、慈悲も、自分自身の境界線すらも消え失せ、残ったのはただ一点。

 『目の前の敵を喰らい、生き残る』という純粋な殺意の結晶だけだった。

「ギ、ギィィィィッ……!?」

 土蜘蛛の誇る強靭な外殻が、蓮の手が触れている箇所からみるみるうちに色褪せ、生気を失ってボロボロと崩れ始める。

 八つの瞳から光が消え、逃れられない死を悟った巨大な個体が恐怖に震えながら、逆に小さな人間に吸い殺されていく。

《Lv21→Lv30》

《称号:『死線を越えし者』を獲得》

《スキル『魔糸操術』を獲得しました》

《スキル『超速再生』へと進化しました》

 ドサリ、と重い音を立てて繭が床に落ちる。

 中から這い出してきたのは、全身を返り血と不気味な体液で汚した、人間離れした気配を纏う青年だった。

 背後では、かつてフロアボスと呼ばれた巨大な蜘蛛が、ただの白茶けた抜け殻となって転がっている。

「……ふぅ。……少し、食いすぎたか」

 蓮は自分の手を見つめる。

 皮膚は以前より透き通るように白く、だが触れれば鋼よりも硬く変質している。


 ふと、静寂が訪れた室内に、自分の心臓の音がうるさいほど響いていることに気づいた。

 ドクン、ドクンと、新しく作り替えられた心臓が、奪い取った鮮烈な生命エネルギーを全身に送り出している。

「……あ。……ああ……」

 漏れ出たのは、声ともつかない吐息だった。

 指を動かせる。腕を上げられる。

 さっきまで、自分の肉が溶け、内臓を掻き回され、死の淵で泥を啜っていたのが嘘のように、全身が「生」の躍動に満ち溢れている。

「……生きてる。俺は、生きてるぞ……ッ!!」

 蓮はその場に膝をつき、震える両手で自分の顔を覆った。

 目尻から熱いものが溢れ、返り血で汚れた頬を伝い落ちる。

 それは恐怖への涙ではなく、絶望を力ずくでねじ伏せた者だけが味わう、狂おしいほどの歓喜だった。

 暗い穴の底で、誰にも看取られず、ゴミのように腐り果てるはずだった自分。

 カトウたちに「役に立って光栄だろ」と嘲笑われ、無価値なデコイとして消費されたはずの命。

 それが今、こうして彼ら以上の力を宿し、地獄の底から這い上がろうとしている。

「あは、はははは……っ! 見ろよ、カトウ! 蜘蛛一匹、殺せもしない無能だって言ったよな!? その無能が……こいつを丸ごと喰ってやったんだよ!!」

 剥き出しの感情が、喉を焼くような笑い声となって弾ける。

 暗闇に向かって叫ぶその声は、もう震えてはいなかった。

 腹を貫かれた絶望も、全身が融解する激痛も、すべてはこの瞬間の「勝利」のために必要なスパイスに過ぎなかったのだと、歪んだ確信が胸を支配する。

「死なない……。もう、誰が相手でも、俺は絶対に死なない……」

 蓮は力強く立ち上がった。

 以前の彼を動かしていた「死への恐怖」は、今や「生への執着」という牙へと変わっていた。

 

 彼は土蜘蛛が守っていた豪華な宝箱など目もくれず、ただ上へと続く階段を見据えた。

 その視線は、暗闇を透かし、遥か上層で安穏と過ごしているであろう復讐の対象を、すでに射抜いている。


 



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