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4話

土蜘蛛を喰らい尽くし、静寂が戻ったボス部屋。

 蓮は、壁に背を預けて荒い呼吸を整えながら、頭の中に叩き込まれていた『嘆きの迷宮』の構造図を広げた。

「……現在地を割り出す必要があるな」

 かつて荷物持ちとして、カトウたちに「地図を覚えろ、遅れたら置いていくぞ」と脅されながら必死に記憶したデータ。皮肉にも、その奴隷のような日々で培った知識が、今の彼を支えていた。

(突き落とされたのは10層の断崖。そこから垂直に、少なくとも三階層分は落下した……。ここは正規のルートには存在しない『断層下層アビス』だ。カトウたちがいる11層の真下……いや、それよりもさらに深い場所か)

 蓮は、自分の足元を見つめる。

 この場所から上へ戻る道はない。だが、ダンジョンというものは、深く潜れば潜るほど魔力が濃くなり、構造が不安定になる。そして、最深部には必ず「エネルギーの逃げ道」として、地上へ繋がる特殊な魔力門ゲートが存在するはずだった。

「カトウたちは今、11層の攻略を始めているはずだ。あの慎重で臆病な男なら、罠を警戒して一日は停滞する。……なら、俺がこの『奈落』を一気に踏破して最下層のゲートに辿り着けば、地上であいつらを待ち伏せできる」

 距離にして約十階層分。

 まともなパーティなら一ヶ月はかかる。だが、今の蓮に「撤退」や「休憩」の文字はない。

「レベル30……。この階層の魔物なら、一対一なら負けない。だが、数で押されれば今の『超速再生』でも追いつかない。……もっと、もっと効率よく喰わないと間に合わないな」

 蓮は、自分の右腕に宿った『ドレイン』の脈動を感じる。

 カトウたちへの復讐心。それが、物理的な「距離」として計算できるようになった今、彼の瞳には冷徹な光が宿っていた。

「待ってろ、カトウ。お前が『ついに15層を突破したぞ!』なんて祝杯を挙げている頃……俺は地獄の底から、お前の喉元を掻き切りに現れてやる」

 蓮は立ち上がると、『嗅覚強化』のスキルを研ぎ澄ませた。

 暗闇の奥、さらに下層から漂ってくる、より濃厚で、より強力な魔物の臭い。

「……次のメニューは何だ?」

 彼は、自らの影に潜む殺意を連れ、奈落のさらに深淵へと足を踏み入れた。


奈落のさらに深部、一五層相当の未踏領域へと踏み入るにつれ、迷宮はその様相を醜悪に変えていった。

 壁面からは不気味な粘液が滴り、空気は魔物の腐臭と濃密すぎる魔力で澱んでいる。

 そこでの戦いは、もはや「戦闘」と呼べるほど綺麗なものではなかった。

 空腹と消耗を補うため、蓮は倒した魔物の肉をナイフで削ぎ、そのまま口に運ぶようになった。生臭い肉、土の味、そして鼻を突く魔物の体臭。

「……っ、う、ぇ……」

 最初は胃が拒絶し、激しく嘔吐した。

 だが、吐き出したそばから腹が鳴る。強引にレベルを上げた肉体が、さらなる「糧」を要求して悲鳴を上げているのだ。蓮は震える手で再び肉を掴み、泥を啜るようにそれを飲み込んだ。

(俺は……何をしている? 汚い、気持ち悪い。俺は、人間だ。こんなものを食って、こんな風に生きるなんて……)

 魔力を吸い、魔物の肉を血肉に変えるたび、自分の境界線が曖昧になっていく。

 指先はより鋭く、肌はより硬く。思考は「敵か、餌か」という単純な二元論に支配され始める。かつて抱いていた「いつか温かいスープを飲みたい」というささやかな願いさえ、今の自分には縁遠い、贅沢な幻想に思えてくる。

「……怖いか? 自分が『怪物』になっていくのが」

 暗闇に問いかけても、返ってくるのは自分の心臓の音だけだ。

 かつての自分なら、この孤独と恐怖に押し潰されていただろう。だが、心が「人」から離れようとする瞬間に、決まってあの記憶が脳内を蹂躙する。

『お前みたいな無能でも、最後に俺たちの役に立てて光栄だろ?』

 カトウの歪んだ笑顔。自分を突き飛ばしたあの手の感触。

 それらを思い出すたびに、胸の奥で燻っていた恐怖が、漆黒の復讐心によって瞬時に塗りつぶされる。

「怖い……? 冗談だろ。……あいつらを殺せるなら、俺は喜んでバケモノにだってなってやるよ」

 恐怖は消えた。代わりに、冷徹な殺意が思考をクリアにしていく。

 もう、魔物の肉を食らっても吐き気はしなかった。ただの効率的なエネルギー摂取に過ぎない。マイがかつて「美味しいね」と笑いかけてくれた思い出も、今では「食欲」という本能に負けて霧散していく。

「もっとだ……もっと魔力を。もっと絶望を」

 蓮は、白く変質した髪を乱暴にかき上げ、次の標的を求めて這い出した。

 一歩進むごとに、人間としての佐藤蓮は削り取られ、代わりに世界を喰らい尽くす「簒奪者」の輪郭が形作られていく。

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