一人目 今日も変わらず過ぎていく
カタカタカタカタ。
今日もオフィスにキーボードの打鍵音が響いている。始業からしばらくたっているためか、電話も一段落して鳴りを潜め、表面上は穏やかな時間が流れていた。
コーヒー片手に画面を見ている人もいれば、隠れてこっそりお菓子をつまんでいる人もいる。
中には資料を両手で見比べている人もいるが、まあそれは仕方ないだろう。それもまた仕事の一面だ。
かく言う自分はというと、しばらくかかりきりだった資料作成がようやく山場を越えたところ。上司に確認は必要だろうが、ようやく落ち着いて呼吸ができそうだった。
「秋野くん、進捗はどうかね?」
「課長、お疲れ様です。悪くないですよ。週末にはメールで送りますが、先に見ますか?」
「いや、そういうことなら任せるよ。今週中の締切もかかえてるんでね」
課長は細く息をついて肩を落とした。ひどく、というほどではないが、疲れが溜まっているようだった。
「課長ともなると大変ですね」
「ハハハ、全くだよ。部長ともすり合わせをしなきゃならんしね」
「それはお疲れ様です」
「まあ、それも役割だからね。仕方ないことだよ」
課長が力なく笑う。
普段、どちらかというとどっしり構えているタイプの課長がこうもしぼんでいるのは珍しい。
わざわざ進捗確認に来たのも、もしかしたら気晴らしなのかもしれない。
都合良く使われるのなら勘弁してほしいが、たまになら気にしないことにした。
「篠崎さんとはうまくやっているかね?」
「おかげさまで。あの性格に助けられているところはあると思いますが」
ここしばらく聞いていて慣れたためか、課長のさん付けには動じなくなっていた。
篠崎は相変わらず着ぶくれ気味の作業着を着て会社と現場を往復している。
お互いに話すことは仕事のことばかりでプライベートに踏み込んだものはなかった。
だから表面上、空気が変わったということは一切ない。
……つまり、俺は今という現実を受け入れ始めているのだろう。
少なくとも仕事の量が落ち着いて喜ぶくらいには。
「それならよかった。そろそろあの現場は落ち着きそうかね?」
「どうでしょう。何も言ってこないので大きな問題にはなってなさそうですが」
件の後輩はオフィスにはいない。雑然とした机の向こう側に、座る主のいないぽっかりとした空間があるだけだ。
「そうかね? 傍目には仲が良さそうに見えるがそういった話はしないのかね」
「昼食を一緒に食べることはありますが、そのくらいですよ」
「飲みに行って愚痴を言い合うようなことも?」
「ないですね。良くも悪くも仕事仲間です」
そういえば仕事終わりに飲みに行ったことはなかった。
残業も少なくなり、定時上がりも増えてきた。だというのにそういう話がないのは、今どきと言うべきなのだろうか。
「そういうものか。ああ、秋野くん、篠崎さんが帰ってきたら進捗を聞きたいと伝えてくれるかね? もう少ししたら会議でね……その後に来てもらえればいいから」
「ええ、わかりました。夕方のほうがいいです?」
「そうだね。それで頼む。君も体調には気をつけるように」
「ありがとうございます」
話を終えた課長は、足取り重くオフィスの扉をくぐって行った。
会議資料は持っていなかったようだから、きっと息抜きに出たのだろう。
ちらりと周囲を見ると、どこか同情的な視線がオフィスの入口に向けられていた。
先程の会話が聞こえていたに違いない。
(……課長も大変だなぁ)
視線を下げてパソコンに向き直ると、念の為ファイルを上書きする。
先程と内容は変わらないはずだが、保存を忘れていてここ二時間ばかりの仕事がパァになってしまうのはゴメンだった。
オフィスに静けさが戻り、キーボードの音が辺りから聞こえるようになった。
時々椅子がギシリとなる音も聞こえてくる。すでに十一時を過ぎていた。体もガチガチになってきているのだろう。
何人かは立ち上がる様子も見せている。早めに昼休憩を取るのかもしれない。
(資料はこれで大体できたな)
程なくして資料が出来上がった。見直しは必要だろうが、ようやく一息つけそうだ。
伸びをして首を回すとジワリと目元が熱くなる。
集中と緊張は紙一重と聞いたことがあるが、どうやら今回は緊張のほうが強かったらしい。目頭を揉むと少しだけいつもより痛かった。
(コーヒーでも買ってくるか)
パソコンをロック画面にし、かばんから財布を取り出した。中を見ると百円が数枚。
缶コーヒーを買うには十分だろう。
音をたてないようにオフィスを抜け出し、エレベーターホールを通り過ぎる。角を曲がって少し歩くと自販機が二台並んでいた。
「あー、ブラックは売り切れ……こっちもないのか……」
いつも買っている銘柄のブラックコーヒーには赤ランプ。売り切れの文字が虚しく点灯していた。
隣の自販機も確認するが、どういうわけか狙ったようにブラックだけが売り切れている。
「補充されてない……微糖は甘すぎるしな……」
もう少ししたら昼休憩。それならわざわざ缶コーヒーで腹を膨らませるのもなにか違う気がした。
缶コーヒーは諦めるしかないようだ。
売り切れなのだから仕方がないとはいえ、出鼻をくじかれたような気分になりながらオフィスにとって返す。
誰もいないのを確認してから大きくため息をついた。
(早めに休憩に入るか? それにしても早すぎる気も……)
頭の中はそんなボヤキでいっぱいになるが、それも仕方がないと思いたい。
何も買わず手ぶらのまま、先程通ったばかりの角を戻る。
それと同時にエレベーターの扉が開いた。
「おっと。先輩、お疲れ様です。珍しいっスね。先輩がそんなにうなだれてるなんて」
作業着姿の後輩はファイル片手にいつもと変わらないテンションで歩いてきた。多少汗をかいているようだが、疲れているようには見えない。
むしろ少しだけ上気した頬が健康的に見えた。
「あー……いつもの缶コーヒーが売り切れてただけだよ。気にすんな」
「そう言うなら気にしないっスけど、何かあれば言ってくださいよ?」
「大丈夫だよ。それより、なんか課長が現場はどうなってるのか気にしてたぞ? 空いてるときに進捗を教えてほしいとか」
それを伝えると後輩は微妙な顔をした。
なんだろう。面倒な話なのだろうか。
「はぁ……メールでちゃんと報告してるんスけどね……」
「あー…直接話を聞きたいんじゃないか? 受け答えというかそう言うのでわかることもあるだろ?」
どうやら面倒な話ではなく、面倒くさいだけのようだ。
社会人なのだからそのくらいは頑張ってほしい。
「そんなもんスかね。まぁ、課長の話は長くないんでいいっスけど……」
上の立場に立ったことのない平社員の俺に課長が何を気にしているのかはわからない。
だからせめて言われたことくらいはちゃんとやることにしていた。
「あ、そうそう。課長はこのあと会議らしい。急ぎじゃなさそうだし、夕方でいいって言ってた」
「夕方っスか。時間の指定がないなら大丈夫っス」
「タイミングだけ気をつければ平気だと思うぞ」
課長からの言付けも終わり、いよいよ急ぎの用事がなくなった。
時計を見るとそろそろ十二時。思ったよりも話し込んでいたようだ。
「あー……中途半端に時間が余ったな……」
「先輩、午前の仕事は?」
「切りのいいところまでは終わらせた。今から続きをやると昼どころか夕方になりそうなんだよな」
一旦終わらせはしたが、ここからはあら探しとそれを潰す作業だ。こういった作業は気がつけば時間がたっていることを経験から知っていた。
「それならお昼行きましょうよ。うちももう終わったんで」
「……それもいいか」
後輩の提案は都合が良かった。自分一人なら奇異の目で見られるかもしれないが、連れ立ってとなれば話は別だ。
「決まりっスね。じゃあこのファイル置いてくるんで待っててください」
「俺も一旦戻るよ。今、小銭しか持ってきてないし」
「もしかして、先輩の奢りっスか?」
「この前奢っただろ? しばらくはなし」
「じゃあまた今度。楽しみにしてるっスよ」
後輩が上機嫌に言う。心底楽しそうだった。
「いつとは言わないからな」
「それでいいっスよ。ウチは待ってるだけなんで」
日付の入っていない空手形。それでも後輩の機嫌は変わらない。
後輩は足取り軽くオフィスのドアをくぐって行った。
いつかこの約束は果たされる日が来るのだろうか。
もしそんな日が来なかったとしたら、そう思うと手が震える気がした。
「――先輩? もう行けるんスか?」
小さなカバン片手に後輩が問いかけてきた。
本当にファイルを置いてきただけらしい。
「ん? ああ、今とってくるよ」
今は気にしなくてもいいのかもしれない。
少なくとも今だけは。
お読みいただきありがとうございます。
少し間が空いてしまいましたが、お楽しみいただけたなら幸いです。
ゆっくりと更新していきますのでよろしくお願いします。




