一人目 アメと事実にうたれて
ロックの氷がカランと小さく音をたてる。
まだ角がほとんど取れていない氷だが、その身に酒を浴びることすでに三度。もう、酒瓶の中身はごく僅かになっていた。
それだけ注いだはずのグラスだが、中には半分も残っていない。
たまにはそんな夜があってもいいだろう。
お気に入りの酒はもちろん美味い。
美味い、はずなのだから。
「……っぁぁ〜……」
吐き出した息にアルコールが香る。それだけで頭の奥の方がジーンと痺れるような気がした。
ここは居酒屋でもなければ小洒落たバーでもない。それでも屋根の端から滴る雨垂れのリズムが心地良かった。
自然と身体が揺れるが、止めるつもりは全くない。
そうしている間は、気分が少し紛れる気がした。
「…………はぁ」
それでも心のどこかには澱のような何かがあって、アルコールに酔いきれない自分がいた。
また酒を口に含む。鼻に抜ける香りがまた何かを痺れさせた。
「……今日は随分と荒々しい飲み方をするのね」
声のする方に顔を向けると、給水塔を背に座っている少女がいた。
雨のヴェールと傘の影に隠れているせいで細かい表情まではわからないが、声のトーンは少々驚いているようだった。
「そんな飲み方をしたらお酒がかわいそうにならない?」
「……酒だぞ? 別にいいんだよ……」
(味わってはいるんだからいいじゃないか。買ったのは自分なんだし)
少女の軽口も今の自分には少しばかり重かった。
見た目は成人しているかしていないかというくらい。酒などまともに飲んだこともないような少女から、酒がかわいそうなどと言われるとは思っていなかった。
そんな風に見えるのかと気付かされると少しばかり胸のあたりが疼いた。
「なにかあったの?」
「……別に」
「……それは何かあった人の言葉よ?」
少女の指摘は正しかった。
ただ、それがもう済んでしまったことだっただけ。もう、どうしようもなかった。
「ところで、私が言っていたことは理解できたのかしら?」
「……わからないことだらけだよ」
少女の話は事実だった、のだろう。
自分のものではないように感じてしまった身体。呻くことしかできなかった頭の痛み。
普通ではないと直感してしまった記憶がそうだというのなら、少なくとも今の自分には否定するための材料がなかった。
「……あれが死に際の記憶だったとする」
「だったも何も、そのとおりなのだけれど?」
少女がなんでもないように答える。
何を言っているんだと言わんばかりのトーンが堪えた。
「なら、今の俺は何なんだ……」
「…………」
少女の返答はなかった。
「生きているのか? 生きているならなぜこんなところにいる? 追体験しているだけなのか? ならここが死後の世界だとでも?」
手に持ったグラスの中でカラカラと氷が音を立てた。冷えて震えているのかそれとも恐怖からなのか、今の自分にはわからなかった。
「……最初に言ったとおりよ。ここはアメのセカイ。死後の世界じゃないわ」
「なら、死んではいないっていうのか?」
「ええ。だってそうでしょう? 人は死ねばそれで終わりなのだから」
その言葉は容赦なく、ひどく残酷だった。
言葉を返そうにもぴしゃりとした言葉の重みが彼女との間に立ちふさがる。
だから、仕方ないと諦めてグラスを煽った。氷で少しだけ薄まった酒が、珍しく熱を奪っていく。
「……終わり、ね。だったら俺は何なんだ……?」
「あなたはあなたでしょう?」
少女がくすくすと笑う。不思議そうに嘲りもなく。
なぜだろうか。それを見ても不快には思わなかった。
「……わかって言ってるだろ?」
「ふふ、そうね」
悪気はないのだろう。それでも思わせぶりな言葉は心の弱くなっているところを引っ掻いた。
「全部話すつもりは?」
「全部も何も、私の知っていることは話したけれど? あとは全部あなたが納得するように理解すればいいわ」
「納得、ね……」
少女は足をぷらぷらさせながら、薄い笑みを浮かべている。追い立てるわけでも急かすわけでもない。
「できるんだろうか……」
いつもよりアルコールを纏ったため息が雨の空に溶けていった。
酒のなくなったグラスの中で氷が転がる。もう一杯と瓶に手を伸ばしかけるが、残りの少なさを見て諦めた。
「あら、もういいの?」
「いいんだよ。多分、飲みすぎた」
「……強がりかしら?」
「いいや? 残りも少ないからな」
足元を見ると跳ねる雨が少しだけ増えた気がする。雨足が強くなったようだ。
床では相変わらずプールのように水がバシャバシャと流れている。
足が浸かっているが相変わらず寒さを感じなかった。
「……私はそろそろ帰ろうかしら? あなたも早く戻ったら?」
少女はゆっくりとハシゴを下る。降りてくるといつものように傘をさしなおし、顔をその向こうへと隠してしまった。
「……もう少しだけいるよ」
「寝坊するわよ?」
「アラームがなるから大丈夫だよ」
どうせ起きるのはいつもどおりの時間だ。慣れてしまった今では、アラームのならない休日ですら同じ時間に目が覚める。
多少夜ふかししてもそれは変わらないだろう。
返答を聞いた彼女は、肩を竦めたかのように傘を少しだけ落として夜の雨の中に消えていった。
(呆れられた?)
ザアザアと雨が降る。風も吹かない静かな夜に雨音だけが響く。
グラスに残った氷を口に含むと、酒で火照った体の熱をほんの少し奪っていった。
背後の扉を開けて、いよいよ空になったグラスを棚の上においた。
やることがなくなって手持ち無沙汰になった。仕方ないので手を組んで目を瞑る。
そうすると、五感を刺激するのは雨音だけ。
(……少しだけならいいか)
手を組んでいる感覚さえ遠くなる。耳を刺激する雨音だけが全身を満たしていく。
アルコールのせいもあるのだろう。家ではなくどことも知らない場所で、なにかを忘れるかのようにゆっくりと意識が曖昧になっていく。
(まだ明日も仕事か……)
どれだけそうしていただろう。それは本当に少しだけだったのだろうか。
こんなに降っている雨の音すらもう気にならない。
――……ッ――……
(……なんだ?)
雨音に何かが混じって聞こえた。とても小さい音。多分、近くにはない。どこか遠くのような気がした。
――……ピッ……ピッ……
まるで耳元でなっているように聞こえる。首を回してもどこからの音なのかわからない。
――……ピピッ…………ピッ……
段々と音量が上がってくる。断続的に聞こえてくる音が雨音より気になって仕方がない。
後ろの扉を開けてみるが、棚の上にほとんど中身のない酒瓶とグラスがおいてあるだけ。その向こうに目を向けてみても何もなかった。下り向きの階段が続いているだけ。
音源は見当たらない。
――ピッ……ピピッ……ピッ……
耳をふさいでも音の存在は変わらない。
遠くにあったはずの音がいつの間にか近づいてきている気がした。
視界がチカチカする。白くなっていく。
音と同じリズムならまだ我慢できただろうに、不規則なせいで意識をそらせない。
――ピピッ……ピピッ……ピピッ――
いい加減にしろと叫びたくなる。
気がつけば視界が脈を打つように明滅し、目をつむると音が頭に響いて仕方がない。
(もう、限界…だ……)
ついに我慢できないほどの音と光に拳を振り上げてしまった。
だが、それをぶつける先は周りにはない。
下ろし先のない拳が空を切ろうとした瞬間、
――ピピピッ――ピピピッ――ピピピッ――
月すらない世界に光が弾けた。
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