一人目 アメがしみる
トクトクと音をたてる透明な液体はアルコールの匂いをふわりと鼻まで運んでくる。
しばらくぶりに飲む酒は、いつもそうだったように喉を伝って身体に熱を灯す。
普段より熱くなったため息が自然と漏れていた。
空模様は変わらず雨。星は見えず、月明かりもない。風がないおかげで寒くはないが、雨を避けながら一人で座っていると寂寥感を感じずにはいられなかった。
『女は度胸っスよね』
後輩の言葉が後輩の声で再生される。気合の入った声はつい先程のもの。色褪せていない。
『……それは女だからって言われたからか?』
『……面と向かって言われてはないっすよ?』
今度は間違えようもない。
だって、自分からも投げかけてしまったのだから。
記憶との食い違いがたしかに存在していて、でもそのどれもがちゃんと声と色を伴って頭の中で響いている。
どちらかを信じるということはもう片方を否定するということ。
もし片方を否定しないといけないというのであれば、否定するべきはより遠い記憶なのだろう。
(そんなばかな……)
ならばこの記憶は何なのだろうか。夢だとでも言うのだろうか。色まで覚えている記憶を切り捨てなければならないのだろうか。
大きくついたため息が手の中の水面を揺らす。
わずかに黄色みがかった液体は雨よりも少しだけ粘度をまとってふるふると震える。
いや、震えているのは手の方なのかもしれない。そう思うくらいには今の自分に自信がなかった。
「こんばんは。またお酒を飲んでいるのね」
垂れる頭に声が降りかかる。
頭を上げるとそこにはいつものように穴の空いた真っ黒な傘をさして少女が立っていた。
相変わらず雨に濡れている。その姿からは何を考えているのか想像もできない。
「……こんばんは」
気の利いた言葉をかけたかったが、口から出たのはそれだけだった。
くすりと笑った口元が見えた気がした。雨音にすら負けそうな小さな声はどうにか彼女に届いたらしい。
「珍しく気落ちしているように見えるけれど、どうしたの? お酒を飲んでるときは満足そうな顔をしていたじゃない?」
少女から意外だと言わんばかりの言葉をかけられる。
どうせならと楽しくなるように飲んでいた覚えはあるが、今はそんな顔をしていたのだろうか。
「気落ちしているわけじゃないよ。ただ、悩んでいるというか思いあぐねるというか……」
「……それでお酒でごまかしていたの?」
なるほど。彼女からはそう見えたらしい。
本当は気晴らしのつもりだった。酒が入れば気分も上向くかもしれないと思っていた。だけど、結局は思考の荒波に囚われている。
それをごまかしているというのであれば、もしかしたらそうなのかもしれない。
「そんなつもりはないんだけどな……」
「ならどんなつもりなのかしら?」
「…………」
少女の切り返しが言葉をつまらせた。
出口の見えない迷路にやってられないと思う自分がいることは否めない。
「…………後輩は、篠崎は女だったよ」
「それがどうかしたの?」
少女の返答はそっけない。それがどれだけ俺を懊悩に引きずり込んでいるのかわからないようだ。
そういえばこの少女は後輩のことを彼女、と言っていた。もともと女性と認識していたのだろう。
「……俺が覚えている範囲だと、篠崎は男だったんだ」
「……続けて?」
嘘のような本当の話。
少なくとも自分の記憶では、篠崎は男で、課長からもくんと呼ばれていて、緊張が抜けるまで時間がかかった後輩。そんな印象だった。
なのに篠崎は女で、よくよく聞けば課長もさん付けで呼んでいて、緊張しているのかしていないのかわからないくらいには気安い相手。
そしていつの間にか仕事では隣にいることが多い相手の一人になっていた。
そんな話をつらつらと語って聞かせる。
空になったグラスに少しだけ酒を注いだ。口を軽くするのにちょうどよかった。
「そういえば君も篠崎のことを彼女って言っていたよな?」
「……ええそうね。たしかにこの前、彼女と呼んだわ」
「ならやっぱり……俺がおかしいん、だろうな……」
記憶違いというのは確かにあるだろう。
それでもショックだった。エピソードとして覚えていることさえ間違っているなんて。
「……何が正しいんだろうな」
酒のせいもあるのだろう。気を緩めてしまったといえばそれまでの話だが、こぼれてしまった呟きは酷く震えていた。
「……自分を信じればいいんじゃないかしら?」
「っ!? それは……!!?」
彼女の言葉に思わず立ち上がる。踏み込んだ右足がバシャッと音を立てた。
詰め寄りそうになるのをグッとこらえるが、手に持ったグラスの中で酒が先走るようにはねる。
信じきれればどれだけ楽だろうか。
自分の記憶すらアテにならない今、どこからどこまでが信用できるのか。その指標すら不確かだ。
「相当混乱しているのね」
「……そうだな。正直、訳がわからない」
震えるため息を吐ききってどうにかそれだけを返した。
夢ならどれだけ良かっただろう。それでも後輩と飲んだコーヒーが、エナジードリンクが、それを現実だといってやまない。
雨に体温を奪われないここにいることのほうが、よっぽど夢のように思えてしまう。
「……突拍子もない話になるけれど、聞く?」
「…………聞かせてくれ」
少女の言葉で答えが出るとは思えない。それでも光明になればと藁にも縋る思いだった。
「単刀直入に言うわ。あなたは何度か死んでいるの」
「…………は?」
斜め上の言葉に思考がフリーズする。
前置きはされていたがそれでもなお理解が追いつかない。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、別に死んでなんか――」
そんなはずはない。いくら自分が信用できないといってもそれは記憶の話だ。ここに今いることは疑いようもない。
本当に死んだというのなら今こうしている自分はなんだ。
「いいえ。あなたは何度か死を経験している。記憶にないだけ」
「…………」
少女は断言した。そこにためらいは見当たらない。
本当に記憶がないというのであれば、反論もできそうになかった。
しかし、
(そんなことはあり得るんだろうか……)
昨日のこと、一昨日のこと、それよりも前のことだって記憶にある。
仕事のことも、何を食べたのかも、いつ寝たのかもちゃんと覚えている。
だから、彼女の言うことを飲み込めないでいた。
「納得できないって顔ね?」
「……そうだな」
「篠崎さんのこともあるのに?」
後輩のことを言われると痛い。自分の記憶が不確かだと自分でも思ってしまったのだから。
「……それなら、ここに初めてきた日のことは覚えている?」
それはそう遠くない過去。少なくとも後輩が入社してきたあの日よりもずっと近い。
「……覚えてるよ」
あれだけ印象に残っているのを忘れるのは難しいだろう。
あの日は週末を控えた金曜日。なのに気持ちはどんよりとしていた。
提灯の明かりに恐怖を覚えたように避けて歩いた。周りから見れば自分の姿は幽鬼のようだっただろう。
あの頃はできれば思い出したくもない。それほどまでに疲弊していた。
「本当に?」
倒れ込んでしまって折れたままになったスーツ。投げ出されて土埃をかぶってしまったカバン。
駅から離れたあとは誰ともすれ違わなかった。
忘れてないはずだ。
「ならもう一度思い出して。ちゃんと覚えているならきっとわかるはずだから」
「わかるって何が……」
「それも含めて全部。本当に覚えているなら、ね」
それだけ話すと彼女は踵を返した。
これ以上、何も言うつもりはないということなのだろう。
少しだけ、姿が遠くなった気がした。
「次に来たときはわかってるって期待してるわ。大丈夫。ここは逃げないから」
「……わけがわからないけど、わかった。じゃあまた……」
「ええ、待っているわ」
今度こそ少女は歩きだす。後ろ姿が雨に霞んでいく。少女がいたという痕跡は雨に流れていった。
残されたのは呆然と立ち尽くす自分だけ。
(疲れた……)
少女が見えなくなると緊張が切れたのか、どっと疲れが押し寄せてきた。
階段に座り込んでグラスの中身を一気にあおる。ため息がまた一段と熱を持った。
背中を預けていた扉を開け、グラスを棚におく。酒瓶もその隣においた。中身はもうあまり残っていなかった。
手持ち無沙汰になってぼんやりと雨を眺めた。
眠くなるまででいい。
今は何も考えたくない――
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