一人目 繋がらない記憶と短い夢
「先輩、五分たちましたよー。起きてくださいよー」
「んぁ……?」
後輩の声に起こされて顔を上げるとそこは会社のエントランスだった。
外からも受付からも見えないトイレ付近の片隅。人工の観葉植物で視線が切られた椅子に座っていた。
短時間とはいえ船を漕いでいたせいか肩周りが張っている気がする。
「もう、か……?」
「そりゃ五分っスからね」
昼下りのエントランスにはたっぷりと日差しが差し込んでいる。外気から遮断された暖かいエントランスはなお暖かく、眠気をこれでもかと引き出してくる。
結果、わずかばかりの睡眠は眠気を強くしただけだった。
「しっかりしてくださいよ。五分で起こせって言ったのは先輩じゃないっスか。もう少ししたら先方に合うのにそんな顔してたら変に思われますって」
「そんなこと言ったか? あ、いや……なんでもない。コーヒーでも買って目を覚ますわ」
「……寝ぼけてるならコーヒーよりエナドリのほうがいいんじゃないっスか?」
散々な言われようである。
とはいえここの自販機はあくまでオフィスに設置されたもの。コーヒーの種類は豊富だが、糖分たっぷりのエナジードリンクなんて陳列されていない。
「ここの自販機にエナドリなんかないぞ?」
「目覚ましついでにコンビニ寄りましょうよ。歩いてる間にある程度スッキリしますし」
「時間は大丈夫か? あんまりないとか言ってたような……」
「そのくらいの時間はありますよ。ていうかそんな時間もないなら五分とか言わず叩き起こしてるっスよ?」
「……それもそうか」
後輩の言っていることはある面で正しい。仮に立場が逆なら自分もそうしていることだろう。
余裕があるのならコンビニに寄るのもいいだろう。
立ち上がると凝り固まった身体が音を立てた。
「あたた……」
「なんか先輩、おじいちゃんみたいっスね」
「それは流石にひどくないか……?」
肩を回しているのをみた後輩の感想がそれだった。
首を傾けたままだったせいだろう。特に肩周りが痛かった。
肩が凝り固まってしまえば、頭痛や他の痛みにつながる。よくほぐしておかなければ。
(そういえばさっきの頭痛、治まってるな。ちょっとでも寝たおかげか?)
頭はスッキリしていないものの、歩くたびに頭に響いていた痛みはない。
一体何だったのだろうか。
「とりあえず先輩が起きて良かったっスよ」
「ああ、心配かけて悪かった」
「ちょっと寝てただけなのに心配なんてしないっスよ。起きないと困ったでしょうけど」
「えっ……?」
寝てただけ。そんなことがあるのだろうか。
あのひどい頭痛のことははっきりと覚えている。座り込んでも治まらなかった。
後輩にも心配をかけてしまったはずだ。朧げだがあれほど焦った後輩の声は忘れようもない。
「……そういえば一度上に戻るとか言ってなかったか? ここにいるってことは用事はすんだのか?」
「? なんのことっスか?」
「いや、ほらさっき言ってただろ?」
「うーん……なんのことなのかわかんないっスけど、上に戻る用事はないっスよ? 今日はこのあと先方と定期報告ですし」
頭を殴られたような衝撃を受ける。
自分の記憶と後輩の行動が一致していなかった。
明らかにおかしい。おかしいのだが後輩はそれをおかしいと思っていない。
(じゃあおかしいのは俺……?)
そんなはずはない。
あの痛みは忘れようにも忘れられない。
靄がかかるような感覚を覚えている。
なにより、顔を青ざめさせながら心配してくる後輩のことも。
「休憩中に多少寝てたみたいっスけど、お疲れですか?」
「……ああ、そうみたいだな」
かろうじてそれだけを絞り出した。
変な態度になっていないだろうか。それともそれも疲れのせいだとでも思ってくれたのだろうか。
後輩は少し困ったように眉をよせながら小さく笑ってくれた。
「やっぱりそうっスか。連れ出さないといけないのは申し訳ないっスけど、無理はしないでくださいよ?」
「そんなつもりはないんだけどな……」
「今言われても説得力ないっスよ?」
「ハハハ……そうだな」
乾いた笑いが漏れる。顔が引きつっている。
図星をつかれたと思っているのか、後輩はそれを気に留めている様子はない。結果として誤魔化せたのがせめてもの救いだった。
「それじゃ行きましょうか」
「あ、ああ……」
後輩に促されてエントランスを歩く。
通り過ぎるついでに受付に会釈をすると、向こうも同じように返してきた。
昼過ぎとはいえ、まだ来客はないのだろう。エントランスには自分たち以外、人影は見当たらなかった。
「さて、先輩の目覚ましにちょっと先のコンビニにしましょうか」
後輩が自動ドアをくぐったところで振り返ってそういった。
細かい時間を把握しているのは後輩だ。だから提案に否はない。
「任せるよ」
「珍しく素直っスね」
「別にどこでもいいからな」
「まあ、エナドリなんてどこのコンビニでもあるでしょうからね」
今や存在が当たり前になってしまったエナジードリンク。銘柄を選ばなければコンビニ、ドラッグストア、スーパーなど、どこに行っても見つけることができた。
お気に入りを選ぶ人もいるだろうが、今は目が覚めれば十分。こだわりはない。
五分少々歩いたところでコンビニが見えてきた。
後輩は迷いなく中に入っていく。
「先輩はどれにします? ウチはとりあえずお茶だけあればいいんスけど」
後輩に促されて視線を上げる。
缶ジュースの棚には黒や緑のベーシックなものから、ピンクやオレンジ、はたまた青などビビッドなものまで何種類もズラリと並んでいた。
コンビニという狭い空間の中で棚を占拠するほど置かれたエナジードリンク。それほど需要があるのだろう。
できれば頼りたくないと思ってしまうが、少し歩いた程度では頭がはっきりとはしなかった。しぶしぶあまり甘くないシュガーレスを手に取る。
「へぇー、それ選ぶんスね」
後輩が手元を覗き込んできた。珍しいと言わんばかりの感想を言う。
「なんていうか、ベタつきそうな甘さが苦手なんだよ」
カロリー控えめならそんなことはないだろうという安直な選択だ。
「それでよくエナドリを飲もうなんて思いましたね」
「お前が飲めって言ったんだろ?」
「いや、苦手だと思わなかったんで……」
「飲めないわけじゃない。目覚ましがほしいのは間違いないしな」
自己暗示の一種かもしれないが、数百円で目が覚めるならそのほうがいい。少なくとも後輩に迷惑をかけることはないだろうから。
「先輩がいいならいいっスけど……」
「いいんだよ。すみません、お願いします」
「いらっしゃいませー。少々お待ちください……」
カウンターに缶一本を置いた。
店員はレジをポチポチと操作すると、バーコードを読み込んだ。
「一点で二百五十八円です」
「ついでだからそれも出しな」
ミニサイズのペットボトルを持っていた後輩に向かって言う。
「えっ? いいんスか?」
「いいよそのくらい。その代わり飲んでる間は話に付き合ってくれ」
「……先輩がそれでいいなら」
後輩が遠慮がちにカウンターに置いた。
ペットボトル一本なんて大した金額じゃない。それよりも今は確かめたいことがあった。
「合わせて三百九十三円です」
「クレジットカードで」
「少々お待ちください……タッチか差し込みをどうぞ」
カードを機械に近づけるとピロン、と音がなった。決済が終わったようだ。
「相変わらずカードなんスね」
「まあな。ネット通販でも使えるし」
「決済アプリでもいいじゃないっスか。カードも連携できますし」
スマホさえあれば何でもできる昨今、アプリを使わないのが珍しいのはわかっている。それでも使おうとしないのはただ単に管理するものが増えるのが面倒だからだ。
現金とクレジットカードさえあればほとんどの場所で会計できる。それで十分だと思っている。
「……面倒なんだよ」
「ポイント、結構貯まるっスよ?」
「カードでも貯まるからいいよ。それより出るぞ? 邪魔になる」
「そうっスね。あ、ごちそうさまです」
「気にすんな」
後ろに他の客はいないが、レジ前で話していれば仕事の邪魔になる。さっさと移動するのが吉だ。
ドアをくぐると早速プルタブを引く。プシュッと音を立てて甘い匂いが鼻に届く。
ノンシュガーのはずなのにむせ返るような甘さだった。
「それで先輩、話ってなんなんです?」
後輩はお茶に口をつけながら言った。
「いや、定期報告の人なんだけどさ」
明後日の方を見ながら一口。ケミカルな甘さが舌をピリピリと刺激する。炭酸だから当然かもしれないが。
「小野田さんっスか?」
そういえばそんな名前だった気がする。普段会わない人だからか顔と名前が一致しない。
「その小野田さんだけどさ、なんでまた俺も話しに行かないといけないんだ?」
「本人じゃないんでよくわかんないっスけど、多分、覚えてたからってだけっスよ」
「……それだけ?」
缶の中身が半分になった頃、炭酸のおかげか頭が少しだけスッキリしだした。
「外の意見がほしいっていうのは本当だと思いますけどね。まぁ、男性の意見がほしいらしいんで女のウチじゃ難しいんスよ。きっと」
「そんなに難しいか?」
「理解はしてると思うんスけどねー。納得はできないらしいんスよ」
性別ってそんなに重要っスかね。
後輩は珍しくぼやくように言った。
過去に何かあったのだろうか。
チラリと後輩に視線を向けると、どこか遠くの方を見ていた。
「――先輩はそんなことないっスよね」
「んー……重要じゃないとは言わないけど、理由にはならないかな」
どんな人かを知る上で、性別は切っても切り離せないだろう。だからといってそれを理由にはしない。
どうしようもないことでその人を評価したくない。
それが正直な感想だった。
「それがフツーっスよね」
「どうだろうな。そうであってほしいとは思ってるけど。それとも何かあったのか?」
後輩の声は重かった。確認するわけでもなく、探りを入れるわけでもない。まるで言い聞かせるようだった。
「そういうわけじゃないっスけど、ただ……」
「ただ?」
「なんだかやるせないんスよねー」
「……それは女だからって言われたからか?」
聞いてからしまったと思ったが、後の祭り。口をついて出た言葉はもう戻らない。
「……面と向かって言われてはないっスよ?」
後輩はまるで私が気にしているだけ、と言っているようだった。だがそれは否定の言葉ではない。
「それでもそれっぽいことは言われましたからねー……」
「そうか……」
「……そうなんス」
そんなことを言い合っているうちに缶の中身が空になる。
まだ少しだけ頭がぼんやりしている気もするが、はっきりも時間の問題だろう。
ゴミ箱に缶を放り込むとカバンを手に持ち直す。
どうやら後輩もちょうど飲み終えたところのようだ。
「ま、無理かもしれないけど気にしなくていいぞ。お前はよくやってる」
「……そうっスか?」
「少なくとも俺はそう思ってるぞ? 多分課長も」
「……ならもう少し頑張って見るっス」
後輩もペットボトルをゴミ箱に捨てる。結構いっぱいだったようでどうにかこうにか押し込んだ。
「よっぽどキツかったら言えよ? その時はなんとかするから。多分」
「先輩、最後の多分で台無しっスよ?」
後輩が少しだけ笑って言った。
「せっかくならカッコよく決めてほしかったっスねー」
「俺だけでどうにかできる保証はないからな。嘘つかないための保険だよ、保険」
「先輩らしいっちゃらしいっスけど」
その言い草はどうなんだと言いたい。が、そこにツッコむのは今じゃない。そんな気がした。
「そういえば先輩、目は覚めました?」
「おかげさまでな。居眠りするようなことはないと思う」
「なら良かったっス」
「時間は大丈夫そうか?」
社会人が寄り道をして遅れた、なんて言い訳にすらならない。
「割とギリギリっスけど大丈夫っス。行きましょうか」
「ああ」
歩きだした後輩に続く。
足取りは軽そうに見えた。
「女は度胸っスよね。頑張るっスよ」
少し、気合を入れ過ぎではないだろうか。
そんな感想が頭をよぎるが、それは気にしないことにした。
元気ならいいか。
お読みいただきありがとうございます。
いかがだったでしょうか。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しく思います。
ゆっくりとですが更新していきますのでお待ちいただけますと幸いです。




