一人目 記憶と後輩(前編)
五月の半ば、桜の花も散り葉桜ばかりが目立つようになる頃。
基本的な研修を終えた新入社員がそれぞれの部署に配属になる。
そう。これは彼が初めてやってきた時の記憶。もう随分と前のことのような気がする。
「はじめまして。自分は篠崎真といいます。何もかもわからない新人ですが、一人前になれるよう何でもやるつもりです。よろしくお願いします!」
そう言ってやってきたのはまさに新入社員というべき初々しいスーツ姿の男だった。身長はそこまで高くなく、どちらかといえばかわいらしいと形容すべき人懐っこい笑顔を浮かべていた。
「あー、篠崎くんだったね」
「はいっス! ……あ、はい!」
「そんなにかしこまらなくていい。私は課長の長浜だ。何かあれば私に相談してくれ」
「承知しました」
「うんうん。さすが新入社員、フレッシュだね。とはいえ、仕事を教えるのは私じゃなくて別にいるからね。最初のうちはそっちで話をしてくれ」
そこまで言うと課長が目線で合図を送ってくる。どうやら自分の番らしい。
「篠崎くんはじめまして。指導役の秋野だ。よろしく頼むよ」
「秋野先輩っスね。よろしくお願いします!」
「あとは任せたぞ」
右手を彼に向けて差し出すとしっかり握り返してきた。それでも緊張しているようで、少しだけ震えていた。
「慣れないことばかりで緊張もあるだろうが、無理はしなくていいからな。できることを少しずつ増やしていこう」
「う、うっす」
「うちは体育会系じゃないから返事ははいでいいぞ?」
「は、はいっス!」
声が若干上擦っているのが初々しい。
少しすれば打ち解けてくるだろうか。
「覚えていくことはあるだろうけど、今日は荷解きにしようか。研修で色々押し付けられただろ?」
「は、はいっ! ……あ、いえ、そんなことはないです!!」
勢いのいい返事に思わず笑ってしまう。かなり緊張しているようだ。
「俺のときもそうだったんだ。あの資料の量には思わず悪態をついたもんだよ。気にするな」
「え、あ、そうだったんですか……よかった」
目に見えてホッとする後輩くん。
もう課長は自分の仕事に戻ったというのにガチガチなままだ。
それも仕方のないことだろう。初めての場所なのだから。
「ま、そんなわけで指導自体は明日からな。研修で教えられたことは知ってる前提で話すかもしれないから、今のうちに復習しとくといい」
「承知しました!」
元気なことだ。若々しいと言ってもいい。
しばらく新人が来なかったこともあり、周りを見渡してもどこか微笑ましい視線になっている。
気づかなかっただけだろうが、きっと自分のときもこんな雰囲気だったのだろう。
「さて、そんなわけだから自分の仕事に戻るよ。もしやることがなくなったら声をかけてくれ」
「はいっス」
ハキハキした気のいい返事だ。これならしばらくは自分で作業をするだろう。
一息ついて自分の席に戻った。ようやく慣れてきた光景をバックにパソコンに向かう。
何をしていただろうかと確認しながらエクセルを開いた。いくつもの空欄のセルが目の前に広がる。
(ええっと……確かこの前の見積もりの準備だったかな)
正直に言えば仕事の余裕はない。ましてや新人の指導など今までしたことがないことまで抱える隙間はどこにもなかった。
(だからこそ今日は整理だけにしたんだけどな……)
今日中のタスクはこの見積もりの他にもある。まだ半分くらいしかできていない会議の資料作成やデータ整理などなど。
頭に思い浮かべるだけで気が滅入る。
各部署に配属された新人たちも半年もすれば同じように仕事を抱えることになるだろう。
(辞めるって言い出さないといいけどな……)
他の部署ではすでに退職願が出されたんじゃないか、などとまことしやかな噂が流れている。
噂の元が会社の中でもキツイと言われる部署とはいえ、流石に尾ひれのついた情報だろうと思っているが、果たして真偽はどうなのだろうか。
(とりあえず相談されたらちゃんと聞いてやらないとな)
自分もこの会社で働いて長いわけではない。ただそれでも数少ない後輩の役にはたってやりたかった。
切りのいいタイミングで後輩に視線を向けると、資料と格闘しているのか難しい顔をして首をひねっていた。
読み込んではいるようだが、メモをとったりはしている様子がない。最初のうちだから仕方のないことだろうが、メモのとり方から教えるべきだろうか。
(そこまで面倒……みるべきだよなぁ……)
一人前とは言わないが、周りに迷惑をかけない程度には仕事をできるようにしないといけない。そう思うと面倒だと思う気持ちが出てきてしまうが、それも仕事か。
自分もそんな時期があったのだと思えばしないわけにもいかない。
(今のうちに教えておくか)
そう決めて作業を中断する。今日も残業になることは覚悟の上だ。
「あー、篠崎くん、ちょっといいかい?」
「あっ、はい! なにか御用っスか?」
近づいて声をかけるとすぐに顔を上げてくれた。反応も悪くない。
これならちょっと伝えるだけでいいかもしれない。
「明日から仕事を覚えてもらうんだけど、そのときにあとから見返せるようにメモとかとってほしいんだ」
「えっと……録音とかじゃだめです?」
「会議の議事録のときとかならそれでもいいんだけど、資料見ながらだからあんまり向かないかな。資料に書き込んでもいいから」
「わかりました。準備しておきます」
「よろしくな」
「あ、先輩。それとなんですけど……」
「ああ、なんだ」
ついでに聞きたいこともあるのだろう。疑問があるなら今のうちから
「あのですね、先輩――」
「うん?」
突然のことだった。篠崎くんの表情がストンと抜け落ちた。
「先輩……先輩……」
「こ、怖いぞ、篠崎くん。なにか気に触るようなことでもしたか?」
「先輩、先輩先輩、先輩先輩先輩先輩、先輩先輩先輩せんぱ――」
全く動いていないはずの篠崎くんから目が離せない。まるで壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返している。
「――ひっ!!?」
思わず口から悲鳴が漏れる。
逃げ出そうにも体が動かない。目線を反らすことすらできなかった。
「ねぇ、せんぱーい……」
彼はその場から動いていない。にも関わらず、彼の姿だけで視界がいっぱいになる。
「ななななにかな!?」
彼の顔以外が遠くなっているような気がする。
周りがだんだんと暗くなってくる。
「……んぱーい………さいよー」
意識するとなおも視界が狭くなる。まるで貧血のときのように。
それがよくないとわかっていながらも抗うことができない。
(あっ……やば……)
それはそれはあっけなく、まるで細い細い糸が切れるように、スイッチが落ちるように、プツンと意識がとんだ。
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