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アメ降るホシの黎い空  作者: ペーはぁど
15/17

一人目 アメのヴェールに霞んで

 その日はいつもよりも激しく雨が降っていた。跳ね上がる水しぶきは、しとしととは程遠い。まるで放送が途切れたブラウン管テレビのような音が辺りに溢れている。


 足元を流れる水もいつもより深くなっている。座り込んでいる高さまで届くことはないが、足はしっかりと浸かっていた。


 視線を上げれば雨に打たれる給水塔が薄っすらと見えた。錆びた給水塔は立ち尽くしたまま雨にその身を晒している。この世界でどれだけの間そこに立っているのだろうか。

 ここに来て日の浅い自分にはその答えにはどうやってもたどり着けないだろう。



(……今日は飲むのをやめようか)



 背中を預けているドアを開ければそこには一升瓶がある。

 いつもなら日本酒をのんびり飲んでいるはずだが、今日はどうしてもそんな気分になれない。

 空っぽのグラスを持ったまま、ただただ時間だけが過ぎていく。



「――こんばんは。お兄さん」


「……こんばんは。お嬢さん」



 いつもよりも分厚いヴェールの向こう側にいつもの黒い傘が姿を見せた。


 いつもよりずぶ濡れの姿はどうしても心配になってしまうが、彼女は気にした様子もない。穴の空いたコウモリ傘で、顔だけこちらの視線から守りながらいつものように立っていた。



「今日はいつもよりも降ってるんだね」


「そうね。そういう日もあるわ」


「……寒くないのかな?」


「それはあなたもでしょう? 足、冷たくないの?」



 つまりはそういうことなのだろう。

 慣れもあるのかもしれないが、彼女にとってそれは余計な心配のようだ。



「グラスは空なのね」


「ああ……どうしても飲む気になれなくてね」


「水も?」


「水も」


「それならグラスも置いておけばいいのに」



 どこか口寂しいせいで、なんとなく空のグラスを持っている。

 だから彼女に返す言葉が見当たらない。

 いや、こうやってグラス片手に雨を眺めている時点で気持ちすらも見当たっていないのだろう。


 日常のふわふわとした違和感が心をざわつかせる。思えば変化は少し前からあった。

 予定が空白になったり、席が変わったり。

 そういえば最近は課長の機嫌がいい日が多い。普段の課長ならカリカリしていることのほうが多いような気がする。



(後輩もなんだか以前より懐いてきているような……)



 忙しかったせいもあるだろうが、一緒に昼食を食べるなんてなかったように思う。

 そういう意味では今は好ましい状況とも言える。

 ただ……



「そんなに気になることがあるのかしら」


「……顔に出てたか?」


「そうね。気づいてないかもしれないけど、それなりに大きいため息をついていたわよ?」



 なるほど。それならそう言われても仕方がない。ため息をついていたつもりはないが、そうは見えなかったのだろう。



「……いつもの事のはずなのに変な気がするんだ」


「……なんのことかしら?」


「会社がだよ。すごく忙しかったはずなのに、今は以前ほどじゃないんだ」


「それは悪いことじゃないんでしょう?」



 雨の中でもはっきりと聞こえる彼女の声にためらいはない。心の底からそう思っているようだった。


 そう。少なくとも自分にとっては悪いことではないはずだ。



「それはそうなんだけどな。上司が優しくなったり、後輩と前より話すようになったり」


「……それのどこがおかしいの?」


「…………」



 改めて問われるとどう答えていいかわからない。この違和感を言葉にするならどうなるだろう。

 そう、これはまるで、



「……なにかに騙されているような気がしてくるんだ」



 そんなわけ無いとわかっているのに、言葉にすると強引ながらもそんな気がしてくる。



「……続けて?」



 今度は少しだけ返答に間があった。それでも彼女の声色は変わらない。落ち着いた、静かなものだった。



「はじめは覚えていないだけなのかと思った。でも日付はちゃんと合っていて、昨日までの仕事もやったとおりだった」



 自分のやったことはちゃんと覚えていた。小さなミスこそあったが、それは自分らしさでもあった。

 だからそこはおかしくない。



「でも後輩とあんなに仕事をやっていた覚えはない」



 後輩は後輩で仕事を抱えていた。これは変わらない。ただ、あんなにも親身になって教えていただろうか。わざわざ一緒に昼に出かけるほどだっただろうか。



「上司だってそうだ。締め切り間際でもないのに進捗確認にかこつけて話を振ってくることもない。それに、後輩のミスをスルーするはずがない」



 上司はもともと神経質すぎるくらいだった。携帯電話を忘れたなんて叱責の対象になって当然だった。それが始業前とはいえ機嫌が良かったとはいえ、見逃されたのは不思議でしかない。



「一体どうしてなんだ……?」



 改めて言葉にするともう違和感が拭えない。

 終電で帰宅するはずだった仕事が、いつの間にか定時で帰れることも出てきた。もしかしたらこれもおかしいことなのかもしれない。



「どうして、ね。私に聞いてその答えが帰ってくると思ってるのかしら」


「そうだよな……」



 それは、そのとおりだと思う。自分がわからないことをその場すら知らない誰かが理解しているわけがない。

 だからきっとそれは意味のない質問だ。



「スマン。忘れてくれ」


「ふふふ……ええ。そう言うならそうすることにするわ」



 ザアザアと降る雨が屋根を伝って足元で大きく跳ねる。雨水が床から溢れてこぼれ落ちる。

 真っ暗な中ではどれだけの高さを落ちているのかわからないが、相当な高さなのだろう。少なくとも雨の中にはそれを確かめるための音は見当たらなかった。



「なあ、忘れてくれるならもう一つ聞いてもいいか?」



 その言葉に彼女は意外そうな声を上げて答えた。



「あら、面白いことを言うのね。でもそうね……せっかくだから答えてあげるわ」



 気分がいいとでも言うように、どこか弾んだ声はここに来て以来初めて聞く声だった。



「ここは……なんなんだ?」


「あら、それははじめに教えたじゃない。ここはアメのセカイよ?」


「そうじゃない!!」



 思わず声が大きくなる。だが、聞きたいのはそういうことじゃなかった。

 うまく言葉が出てこない。だが、そういうことを聞きたいわけではなかった。



「ここは何なんだ? 俺に何が起こっているんだ?」



 そうだ。周りが変わったはずなのに何も変わっていないというのなら、変わったのは自分なんじゃないか。


 変わり始めたのは彼女と話すようになってからだった気がする。だったら、この奇妙な雨の世界とやらもなにか関わっているのかもしれない。



「ここのせいでなにか起こっているんじゃないのか!?」



 言いがかりだとは思う。この場所のせいで自分になにか起こっているなんて、そんなはずはないのに。



「…………」


「…………」



 雨音だけが辺りを満たす。


 言葉のない時間はまるで刃のように自分に刺さってくる。やってしまったと思っても、一度口をついた言葉はもう取り返しがつかなかった。



「――もし」


「? なにかあるのか?」



 それはありえないはずのことにわずかだが存在を認める言葉。

 可能性を生み出してしまう言葉。



「もしもだけれど、ここがあなたになにかしているとして、あなたはなにをされたというの?」


「それ、は……」


「なにかしているとして、あなたはどうしたいの?」


「…………」



 突き放すような言葉が重くのしかかってくる。


 何かされていたとしてそれはなんなのか。それは全くわからなかった。

 だから、何も答えられない。



「……忘れてあげる約束だから気にしないことにするわ。でも、そんなに気になるなら確かめてみたらどう?」


「なにをどうやって……」


「――篠崎真(しのざきまこと)


「えっ……!?」


「その名前を持つ人に心当たりは?」


「心当たりもなにも……」



 先程話題にした後輩のことだ。

 何故か懐いてきている後輩。

 一人で仕事をしているがミスも少ないため期待されている男だ。かく言う自分も安心して彼をみている。



「どうしても気になるなら彼女(・・)に直接聞いてみればいいんじゃないかしら」


「聞くも何もあいつはこんなところのことは……」


「ええ、知らないでしょうね。でもね、きっとあなたの知りたいことのきっかけくらいはくれると思うわ」


「一体何を知って……」



 思わず言葉が漏れる。だが、それに答えた彼女は楽しそうな声でこう言った。



「ふふふ……今それを話しても面白くないじゃない?」



 顔は見えないけれど、間違いなくいたずらっぽい表情をしていると思った。

 それがどうしようもなく心をざわつかせる。



「言えばいいだろ!」


「そうかもしれない。でも、言ったところであなたはきっと信じられない」


「そんなこと……」



 ないとは言い切れなかった。

 混乱している今、どんなに筋が通っていてもそれを理解できそうにない。



「だから一度帰りなさい。大丈夫。アメのセカイは逃げないわ」



 彼女はそう言うと踵を返した。後ろ姿がゆっくりと雨に紛れていく。



「ま、待ってくれ!」


「そんな必要、ないでしょう?」



 彼女の歩みは止まらない。

 出口は自分の後ろにしかなく、どこにも行けないはず。だというのに、気づけば彼女の姿はどこにもない。


 右を見ても左を見てもそこにあるのは雨が跳ね返る屋上の床だけ。



「何なんだよ……ここは……」



 それに答える声はない。

 雨音だけが辺りを満たしている。


 呆然と見上げる空には星一つ見当たらない。

 いつもよりも分厚いであろう雲が、鈍色の姿を見せているだけだった。


お読みいただきありがとうございます。

楽しんでいただけていますでしょうか。

ゆっくりとですが更新していきますのでお待ちいただけますと喜びます。

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