一人目 記憶と後輩(後編)
「――ぱーい。せんぱーい?」
遠くから声がする。
それはどこかで聞いた声。
まるで引き上げられるかのようにゆっくりと声が近づいてくる。
「……先輩、起きてくださいよー」
「――んぁ?」
真っ暗だった視界にぼんやりと色がついてくる。
顔を上げればそこにはいつものデスク。左右に資料が積み上がり、開いていたパソコンの画面でカーソルがチカチカと点滅している。
「休憩中とはいえ、先輩が寝てるなんて珍しいっスね。お疲れですか?」
「んん? ああ、篠崎くんか。ゴメンゴメン、なにか用か?」
どうやらただの夢だったらしい。それにしてはかなり怖い夢だったが。
「くんって……まぁいいっスけど。それより先輩、そろそろ準備しないと待ち合わせに間に合わないっスよ?」
そう言われて時計を見ると午後一時過ぎ。今日の予定は何だっただろうか。
先程まで寝ていたせいか頭がはっきりしない。
「スマン。寝ぼけてるみたいだ。なんの待ち合わせだっけ……」
「ほんとに珍しいっスね。ウチが担当してるやつの御用聞きっスよ。ほら、先輩もこの前一緒に愚痴みたいなの聞いたやつ。あれです」
そういえば喫茶店でビーフシチューを食べた日にそんなことがあった気がする。
あれはあれでなかなか強烈だった印象がある。あのときからそれなりの時間が過ぎているが、その間にもこの後輩は何回も会っているのだろうか。
「なんで俺も行かないといけないんだよ……前回で懲りたんだが……」
「相手は男性ですからねー。男性にも意見が聞きたいんスよ。きっと」
そんなもんだろうか。違った角度から意見が欲しくなることがあるのは同意するが、だからと言って何回も呼び出されるのはたまったものではない。
(そりゃ男の意見を男に聞くのは妥当だ。だからってなんで他の仕事を切り上げていかなきゃならないんだ?)
予定表を見るとそこには確かに後輩と外でミーティングとは書かれている。書かれてはいるが他の仕事がないわけではない。前倒しできるならしてしまいたい仕事だってある。
「別にお前の意見でもいいじゃないか。今まで的はずれな意見出したことなかっただろ?」
「そうなんですけどねー。それでも女のウチじゃだめみたいっス。頭はいい人なんですけど、ちょっとお硬いっスよねー」
「きっちりしてるって意味ではそれでいいのかもしれないぞ? だから変なことは言われないだろ? あ、俺の呼び出し以外な」
「そうっスね。メリハリがきいてるって意味では付き合いやすい人っスよ」
「なら俺のところよりよっぽどいいぞ」
「そんなもんっスかねー?」
なぜだろう。今、聞き捨てならない何かがあった気がする。
「あ、そんなことよりもう少ししたら出ないと間に合わなくなるっスよ。時間もきっちりしてる人だから遅刻できないんで、準備お願いします」
「お、おう……わかった」
「それじゃウチは先に降りてるんで、早めに来てくださいね」
後輩はそう言うとカバン片手にオフィスを出ていく。その後ろ姿はどこか機嫌が良さそうだった。
(なにかいいことあったのか?)
心当たりはない。
最近、仕事が普段に比べて落ち着いているのでそれはあるかもしれないが。
(面倒事じゃないといいけどな……)
そういえば後輩はどんなことに意見を求められているのかは話していなかった。
わざわざ呼び出すくらいなのだから、多角的な意見がほしいのは間違いないだろうが。
(担当でもないのに二回目があるなんてな……)
思っても見なかったことだ。なにか特別な理由があるのだろうか。
『――男性にも意見が聞きたいんスよ』
『――女のウチじゃダメみたいっス』
後輩は確かにそう言っていた。
("女のウチ"……?)
頭の中でなにかがカチリと音を立てた。
(いやいやいや……ちょっと待て)
つい先程見ていた夢がフラッシュバックする。
記憶の中の篠崎は確かに男だったはずだ。課長もくん付けで呼んでいたし、彼もそれに迷わず返事をした。
(そんなはず……ない……)
そのはずなのに否定しきれないなぜか自分がいる。
『くんって……まぁいいっスけど……』
寝ぼけてつい出てしまった言葉にもしっかり反応していた気がする。
なによりその様子に不自然さはなかった。
つまりはそういうことだ。
ならば疑うべきは自分の常識。それが思い込みだったということなのだろう。
(本当にそうなのか……)
理解の追いつかない状況に頭痛がする。
天を仰ぐと視界の端に壁掛けの時計が映りこんできた。カチ、カチ……と秒針が進む。
それなりの距離だが確かに聞こえた。
(頭の整理ができない……)
耳元でドクドクと音がする。
はやる心臓を押さえつけるだめに一つ大きく息を吐いた。それでも音は鳴り止まない。
視界が揺れる気がする。
地震でもないのにグラグラと揺れる様が気持ち悪い。吐き気にならないだけマシだろうか。
それでも秒針はゆっくりと確実に進んでいく。分針もたっぷりと時間をかけて一歩進む。
もうすぐ一時だ。
(……あ、下に降りないと)
後輩を追いかけないといけない。約束に遅れるわけにはいかない。
カバンを持って立ち上がるとこめかみがドクンと脈を打った。
(痛って……)
思った以上の痛みに思わず顔をしかめてたたらを踏む。
心臓が大きくはねた。
「? おい、秋野、どうした? 顔が青いぞ」
「な、なんでもない。大丈夫だ」
向かいの席の同僚が声をかけてきた。そんなにひどい顔色をしているのだろうか。
深呼吸をすると心臓は落ち着きを取り戻そうとする。幸いにも息苦しさはなかった。
「それならいいが……気をつけろよ?」
「ああ……」
ズキズキと響く頭を抑えながらオフィスをぬけだす。
大丈夫、足取りはしっかりしている。
エレベーターに視線を向けると、ちょうど閉まったところ。
たどり着いた頃にはもう二階も降りていた。
(次のを待つか……)
立ち止まってボタンを押す。それだけなのにドクンと鼓動がした。
(はぁ……なんなんだいったい)
大きくゆっくりと呼吸をするが、そのたびに心臓が脈を打った。
酸素が足りないのかわからないが視界が揺れていた。慌てて足に力を入れると揺れがおさまる。
荒くなろうとする息を必死に整えている間にエレベーターが来た。
ポーン、という音と共に扉が開く。中は空っぽだった。
体をどうにか滑り込ませるが、やたらと足が重く感じた。
――七――六―
ふわりと体が浮いたような気がする。
(気持ち悪……)
エレベーターが降りるときは大体こうだが、今日はいつもよりもひどい。その後すぐに重さが戻ってくるのも気持ち悪かった。
―四――三――
ズキリとまた頭が痛む。
(っ!? つぅ……またか……)
壁に体重を預けてどうにか我慢する。
一度意識してしまうと気になって仕方がない。早めに鎮痛剤を飲むべきだろうか。
――一―ポーン……
一階に到着して扉が開いた。
(……後輩を探さないと)
エレベーターを降りてあたりを見回す。どうやら近くにはいないようだ。
歩いていれば頭痛はごまかせるだろうか。歯を食いしばれば側頭部を縦に走る痛みが遠くなるような気がした。
ゆっくりとすり足気味に進む。じっくりと時間をかけて周りを見回せば、エレベーターからはちょうど見えない位置で後輩が座って待っていた。
「……スマン、遅くなった」
いつもより幾分か低くなった声で声をかけると、それに気づいた後輩が顔を上げる。
「もう少し時間あるから大丈夫っスよ……って先輩、何かあったんスか? 顔色悪いっスよ」
「少し頭痛がするだけだ。気にすんな」
立ち話をしているとまたズキリと疼いた。
「気にしますって。顔、真っ青っスよ?」
「大丈夫だ……多分」
「そんな顔で言われても説得力ないんスけど……向こうには伝えるんで、今日はもう休んだほうがいいんじゃないっスか?」
「いやそれは相手に申し訳な――っつ!?」
頭に加えて胸に痛みが走る。
思わず顔がこわばったのがわかった。痛みのせいか視界も若干ぼやける。
「ほらやっぱり。半休にしましょう?」
後輩がゆっくりと近づいてくる。後一歩のところまで来てようやく心配そうな顔をされていることに気づいた。
「……わかった。上に話してくる」
「ウチが! ウチが話してくるんで先輩はここに座っててください」
「……そんなにか?」
「そんなにです。いつ倒れてもおかしくない顔してます」
そこまでひどいだろうか。
苦笑が漏れそうになるのを我慢して後輩に甘えることにした。
ドサリと座り込むと、背もたれに体を預ける。
「それじゃ行ってくるんで、先輩はここで休んでてくださいね」
「……おう」
ぶっきらぼうな返事になってしまったが、後輩はそれでも満足したのか、エレベーターに向かって走っていった。
昼過ぎのエントランスは人の出入りはほとんどなく、静かなものだ。そのせいか、自分の脈拍が大きく聞こえた。
(痛って……座れば治まるかと思ったけどそんなことないな……)
先程までに比べればいくらかはマシだが、それでも痛いものは痛い。意識して顔の力を抜いてようやく痛みが和らいだ気がした。
やはり疲れが溜まっているのだろうか。目を瞑ればまた眠れる気がした。
(戻ってくるの……待たないと……)
このまま帰るにしても、心配をかけてしまったのだからせめて一言伝えてからにしたい。
だというのにだんだんと眠気が襲ってくる。
(少しだけ……少し目を瞑るだけ……)
自分に意味のない言い訳をする。まぶたが降りて来るのに抗えない。ただそれだけ、それだけだ。
「……んぱー……じょうぶ……」
遠くから後輩の声がした。もう戻ってきたのだろうか。それともそんなに時間がたったのだろうか。
「――先輩!? ちょ……っかり……ださ……」
何やら焦っているような様子だが、一度寝落ちしかけていた意識ではすぐに反応を返せない。
(別に心配ないって言ってるんだけどな……)
「…んぱ……まし……さい。せ……」
反応できないどころか意識はどんどんと沈んでいく。
抗う気力もわかないまま、重力に引かれるように。
「先輩……ってく……い……うし……」
そうして深く深く意識が沈んだところで、糸が切れるように、電源を落とすように、意識がぷつんと落ちた。
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