5≠6.Turn the hands on the clock to set the time.
その日も海は静寂であった。
虚無的な透明。深淵的な蒼。そのどちらであっても抱擁し、また拒絶し合う透明と蒼とが連続的に変化して、呑込まれ、混ざり合って、滲み、溶け出す。水面に浮かぶ氷塊は揺蕩うようすでもなく、幾星霜の時をじっと留まっている。
有史来吹雪く外縁よりの風雪に大地と海面、はては空までも蓋をされ、生物という生物が定着しない完結した世界。不完全から完全へと到達することは、次元の値をひとつ飛び越える動作に等しい。次元を突破した者がもと居た場所を見つめる時、軸の欠けたその領域は正しく平面的に処理された一枚の絵画のようであった。切り取られた景色の風景画はすでに終わった世界のケースに他ならない。
とうに幕の下ろされた舞台に、今、遥か遠い航海を終えた船が座礁していた。
船高は観測できるだけで490リノグラフ【1LG=およそ30cm】にも及び、なお船体の半分近くが真っ逆さまに岩壁にも思える氷山を貫き深く冷たく暗い海底へと倒立している。もはや前後の基準など判断する術もないはずだが、そう考える方が都合が良かった。教団の教えによるところ方舟は天空のさらに向こうの彼方、幾億の星海を渡り来るものとある。だから進行方向が逆であって困るのは、ハモニカ人の都合だった。
辺りの海岸線を見渡せば、座礁した船は二つ、三つと地平線を鋲打つ石柱のように点在していた。中央市マーテル・ナインの最奥に位置するカルネアデスの聖域にも、これらと酷似した救世の方舟が池に放たれた石の如く大地を穿ち、同心円状の都市が波紋していた。
今回新たに掘り起こされた座礁船は、数えて6番目の方舟だった。発掘にあたったのはコンコルディア協会の研究員たちだった。彼らは当初よりこの6番船が従来の方舟とは異なる性質を、別様を呈する船であることを認識しながら作業を行っていた。そして半容まで掘り進めてようやく、その違和感の正体へ辿り着いた。不時着的にとでも言えるだろう。
乾留液に浸されたような、もしくは噴き出した分泌物かまでは彼らとて知り得なかったが、黒ずんだ照りのある光沢を反射する有機性と無機性の融合体が複雑に絡み合い、成形を施された巨大なゴム毬を連想させる船体の輪郭がわずかに歪んだ。不自然にも海面は穏やかさを保ったままだった。
千年とも二千年ともする悠久を優に超える古の構造体は、今なお生きていた。つい今先ほどまで何の障害もなく万全な旅路を歩んで来たかのように、あるいは発艦間も無く時空のひずみを通り抜けてきたかのように、生きていたのだ。
胎動する母艦が筋状の蒼白いチェレンコフ光を明滅させ、門は放たれた。
上顎を持ち上げた魚のようにも、龍のようにも思える方舟は、その外殻が鈍い鉛色を弾いて咆哮を上げた。身を砕くかの如く、おぞましい畏怖の念が研究員たちの五感に襲いかかった。この時点で『アミュラの実』を破壊され、自我を喪失した数名の者は幸運ですらあった。残された者たちが望まなければならない光景を知らずの内に済んだのだから。
重たくのしかかった雲の切れ間から薄明が注いだ。やわらかな光の雫が収束し、光線が放射状に地上と天空とを繋ぐ虹色の梯子となった。陽光によって七色に煌めくのは濃アストルム粒子の光学現象である。
基準値を大幅に振り切ったアストルム放射によって、すでに現場作業員の半数が昏倒し、肉体はとうに抜け殻となってそこにあるだけだった。その状態を指して生命体と呼ぶには甚だ無理があり、脈動の一律も、呼吸の一拍も失った彼らの瞳孔は色彩を欠いて、後光を背負いし巨大な影を落とす方舟を拝み眺めるのみだった。
やがて抜け殻の数が多数派を占めだした頃に、それらのひとつ、またひとつが痙攣し、四肢と首とを不規則なリズムであらゆる方角へ動かし始めた。その様子はまるで蛹から羽化する蝶の経過を辿るようだった。
完全な同期を果たした後、蛹だった抜け殻たちの背が左右に裂かれ、背骨と肋骨の両方をひっくり返したような骨組みの翼が花開いた。きし、きしと鳥類の囀りを思わせる音で肉を裂き、続いてリン酸カルシウムで出来た燐灰質の硬骨を引き延ばすやや大き目な破裂音が辺りに谺していた。
さざ波の如く揺らぐ陽光が飛沫上げる紅の液体に浸され臓物を垂れ流す者たちを照らしていた。その姿はさながら天使のようであった。
気付けば浜辺を彷徨うのは死臭を漂わせ羽化した天使たちのみとなっていた。彼らは互いを喰い合い、呑込み合い、貪り合った。数十匹の群体が斑となって数体に、ついには一個体のみが彼らのちいさな生存競争の頂点に君臨した時、骨翼の数は48対を超え、腹より伸びる肢の数は数百に達するほど大小夥しくぶら下がっていた。
骨翼の隙間より薄い被膜が張られ、体積を三倍ほどに肥えさせた身体を持ち上げようと羽ばたいた。
彼の眼前に映るのは、朽ち果てた方舟が一隻。明滅繰り返す光には慈愛が満ち満ちていた。そこには希望すら感じ取れた。
彼の頭頂骨まで裂けた頬に一筋の涙が伝った。それに応えるように方舟は淡い光を瞬かせ、導いた。救済はすぐそこに、手の届く距離だった。
次の瞬間、彼の頭蓋は砕かれ、肉片と黒ずんだ体液が四散した。口開いた頚部から泥水のようにねばつく内蔵液が溢れ滴った。
糸の切れた操り人形がそうであるように、天使は頭から地上へと墜落した。指し示す目標を見失った方舟の門はゆっくりと閉ざされ、蒼白い光もとうに消え失せていた。
その日も海は静寂であった。嵐の地平線と名付けられた意味など、とっくに忘却されたとでも言うように。
その日も海は静寂であった。刹那の嵐を呼ぶ前兆か、すべてが終わった後の凪かはさだかではない。
ただ、その日も海は静寂であった。
浄化は速やかに行われた。以来、ジオ・ハモニカ北部アノニケンス市は粛然とし、異境界の星船と称される6番船は再び眠りにつき、舞台は静止した。
楼刻暦1640年。インジェニー=円環パルログにおいて辛く厳しい天蓋の円環節を終えたばかりの、卵殻の円環節10日のことだった。
21年後。
楼刻歴1661年、天蓋の円環節66日。太陽光球の輝きが一日の中で最も強く放射される正午ごろ。視覚を司る変動倍率レンズを幾度か動かし、クラヴィス・アルゼントは報告書に目を通していた。
マーテル・ナイン第七環区のカフェテリア。精錬された石英鉱の壁材は清潔を極め、磨耗し降り積もる塵の一片ですら星都を彩るきらびやかな装飾として作用し、巨大な光源として天に踊るマルエ=セレニタティスのわずかな熱量を吸い込み、屈折させては拡散する役目を担っていた。
機能性としてのあらゆる無駄を省いた結晶化技術の手法は文字通り、光子のひとつとして余さず、用途を終えた素材ですら再度のアストルム反応を以って再利用することが可能であった。これには限られた資源として枯渇しつつある高純度奏銀技術に学び、未来永劫の繁華を約束する知識であった。
灰色をした機械仕掛けの体躯はひたすらに報告書の字面を読み取り、自身の記憶媒体へと書きこんでいった。それと対面するように腰掛ける男が湯気立つ黒い液体を満たしたカップに大き目な鷲鼻を近づけた。
「うぅ~ん、良いカオリ」
野太い声質が、無理矢理に高く引きつらせた声音に引き摺られ喉仏を忙しく震わせた。
「やっぱり西方の豆は質が違うわねぇ」
極めて女性的な言葉使いで男は、セブンス・コンキリオはうっとりと黒い液体を眺め、マドラーで掻き回した。渦を巻いて中央に沈んでいく黒一色から立ち上る白濁した湯気が吐息と共にふぅっと吹き飛んだ。
そんな彼の優雅なコーヒーブレークになど微塵も興味はおろかセンサーひとつ揺らさず、クラヴィスは文字通り鉄塊の如く沈黙していた。
「……それで。今さら4年も前の報告書を読んで、なにか関連は分かったの?」
流石の寡黙っぷりに先に痺れを切らしたのはコンキリオの方だった。コーヒーカップをテーブルに置き、組んだ脚の左右を手持ち無沙汰気味に入れ替える。視界の端で必死にクラヴィスが読み込むそのフライメア報告書は他でもないコンキリオが用意したものだ。
「階層都市事変……いわゆるトワイライト・メルビム。楼刻歴1657年、萌芽の円環節22日。西方ヴァーポルム第一の都市アイオルビスで起きた階層区画ひとつをまるまる蒸発させた箱舟教団……いえ、この世界最大のスキャンダル。4年前のあの日、あんたもアタシも渦中のアイオルビスに居た……覚えてるじゃない」
うなだれるようにも、馳せるようにも頬杖をついたコンキリオは憂いと共に生じた溜息を吐きだした。
「見るも凄惨な光景だったわ。この世のものとは思えないほどにね」
コンキリオの瞼の裏に蘇るのは、消し去りたくも今なお鮮明に映る暁に燃えた景色。家々の瓦礫と共に弾けて死んだ化け物たちの死骸が、肉片と化して転がり、こびりついた匂い。
そのどれもが、人から人ならざるもの――外敵へと変貌したことを意味していた。
「階層都市事変は21年前、ジオ・ハモニカ北緯外縁アノニケンスで発掘された外敵の生き残りにより発生したと箱舟教団、コンコルディア協会の双方が結論付けたわ。そして教皇であるラピスライトと円環奏府の枢機卿たちは『THESEUS』を用いて黄昏の階層都市……13ある階層区画のひとつを丸々『再生』した」
「唯一の生存者である少年の情報は?」
ようやくクラヴィスは、動くことなどありはしない口元から掠れた発信機のような機械音を響かせた。
「あるわけないじゃない、フライメア計画の証拠を残さないようにぜーんぶ教団側が持ってっちゃってるわよ」
「今朝方、第六環区で火災があったな」
「ええ、逃げ漏れた外敵の可能性が高いってんで教団が機甲使徒を向かわせて鎮火に当たったって聞いてるわ。情報の出処は検閲に当たったジェダだけれどね」
「逃げ漏れた、か」
クラヴィスとコンキリオの間を隔てるテーブルから揺蕩っていた湯気の一筋が消えた。
「クラヴィス、あんたまさか……」
「奴さんらは歯車人の鉄面皮なみに頭は固いが、仕事に手を抜くようなタチじゃない」
きぃ、と軋んだ金属音はクラヴィスがレポートから顔をそらした音だった。すでにコンキリオが嗜んでいたコーヒーは限りなく常温に近い状態まで放置されたままだった。
しばらくの思案の後、クラヴィスはレポートをテーブルへと置き、重たい鉄塊の腰を自ら駆動させ持ち上げた。
「オーライ、レポートの件は助かった。流石は監察官コンキリオ殿、見事な手腕だ。次は第八の拠点で一杯やろう、奢るよ」
「ちょっと待ちなさい」
レポートの上に対価となるベルン銀貨を置き立ち去ろうとするクラヴィスの脚を、コンキリオの重たく野太い声が留めた。
「あんたが引き取ったパテルの子……あの子だってもう、年頃の女の子でしょう? 父親代わりに連れ回すのは良いけれど、なにかあってからじゃ遅いのよ」
「俺が父親代わり? ……まさか」
その声はクラヴィスの脚をものの数秒留めるに過ぎなかった。
軽く笑うような機械音に続いて背を向けたクラヴィスは、左手を上下に軽く振って、擦り切れた黒緋のトレンチを揺らした。
「クオンはもう籠のなかの雛鳥じゃない、一人前の立派なレディさ」
「ほんと、筋金入りのポンコツね!」
歯車人の無骨な背を苦々しく睨みつけるコンキリオをしり目に、クラヴィスは去っていった。
残されたのはレポートと一枚の銀貨。それと冷めきったコーヒー。コンキリオの見つめる先にある、フライメア調査書と銘打たれた文字。
「なにかあってからじゃ遅いのは、クラヴィス……あんたの方なのよ。それがなにかを守ろうとしてる者としての責任なんだから」
冷めたコーヒーの苦みが、コンキリオの口いっぱいに拡がっていた。
2021/03/30 ルビ部分を修正しました。




