―帰り道だけ彼氏面―・中
月一の保健委員会。
今月の議題として、当然ながら体育祭のことが話題に上がった。
プログラムと突き合わせながら、救護席での活動についての話が出る。
ホワイトボードの前に真剣な表情で立つ陸の姿は、まなが好きになった彼の姿の一つだった。
「今配ったプリントが基本の救護席の担当時間です。
不測の事態に備えて、時間外でも可能であれば救護席にいてもらえると助かります」
陸の説明に、主に一年の間から不満げな声が聞こえる。
まなの隣に座る、同じクラスの保健委員の男子も、まなの座る机を指で叩いて、こそっと話してきた。
「体育祭まで委員会に縛られるの?
やっぱり保健委員は”ハズレ”だよな……」
「大変な仕事だけど……少しでもそれで助かる人がいるなら、一緒に頑張ろう?」
まなが小声で返したときだった。
プリントから視線をあげた陸の目が、まっすぐにこちらを見ていた。
「そこの一年生」
陸の、いつもと同じ真面目さの滲むやさしい声が響く。
「意見や質問があるのなら、みんなに共有してもらえると助かります」
そう、いつも通りやさしい声なのに。
まなはスッと心の奥が冷える感じがした。
だが、まなの隣の男子も、臆さずに立ち上がる。
「……では、委員長。
僭越ながら……、保健委員は負担が大きすぎる気がします」
他のみんなまで、その声に賛同する。
ざわめく委員会の場に、陸は一瞬だけ言葉を失う。
まなも何か言うべきかと立ち上がりかけたそのときに、陸の落ち着いた声が響いた。
「……僕も、そう思います。
いつも、皆投げ出さずに仕事をしてくれている。
トイレ係なんて不名誉な呼び名を甘んじて享受しながら。
それって、当たり前じゃないと僕は思う」
しん、と場が静まり返った。
陸の言葉に、みんな耳を傾ける。
「この学校にいて、トイレを一回も使ったことがない人は、きっといないでしょう。
つまり、僕たちの活動は感謝されることがなくても、誰かの助けになっている」
一番不名誉な呼び名を被っている保健委員長の言葉は、トイレ係として日々動いている面々には重たかった。
「競技との兼ね合いで、最低限の時間さえ救護席を守ってくれたら。
僕は、体育祭という青春の場を、保健委員から奪いたくない。
青春をほんの少し救護席に置いてもいいと思う人は、無理のない範囲でテントまで来てもらえたら、それでいいと思っています」
陸が言い切ると、まなは気が付いたら拍手していた。
他の面々にもそれが伝染していく。
「浅瀬くん、それなら私は、今回は時間以外はクラスのほうで」
「私も。トイレ頑張っているから、いいよね?」
「今回は委員長直々のお許しが出るなんて!」
「俺も遠慮なく、今回はクラスで」
「え……?」
陸がきょとんとした顔をしているが、みんなは解放感でキラキラと輝いていた。
「もしかして、僕、何か間違った……?」
まな以外の誰も、その呟きは拾わなかった。
「私は、少しでもお役に立てるように……救護席にできるだけいるようにしますね」
まなが、お喋りの責任を感じながら静かに手を挙げる。
残念ながら、誰も後に続いてくれなかった。
この日、委員会が終わると、いつもよりもみんなが明るい笑顔で、そしてさっさと引き上げた。
「陸くん、かっこよかったよ」
彼の心を少しでも軽くできたらとまなが声を掛けるが、どこか届いていない様子で、彼の顔は曇っていた。
養護教諭が歩いてきて、ポンっと陸の肩を叩いた。
「まぁ、真面目過ぎると疲れるから、みんなも肩の力が抜けて良かったのよ。
当日は私が一番頑張るから、あなたたち保健委員はそこまで気負わなくていいわよ?」
彼女はいたずらっぽく笑うと、荷物をまとめて室内を出た。
残されたまなと陸は、そっと見つめ合い一緒に鞄を持って帰路へとつく。
帰宅時間が他の生徒たちとずれているからか、通学路の生徒の数は少ない。
そのため、二人の歩く距離も半歩ほど近く、時々手が触れる。
そのたびに、まなの胸は高鳴った。
けれど陸の目は静かで、まなの中の触れたい気持ちは一気にしぼんでいく。
彼の方へ半歩寄っていたのは自分だけだったのかもしれない。
そう思うと、今は間をあけるべきなのかと、一瞬迷った。
「……ごめん、まな」
離れようと思った瞬間に、まなの手が取られる。
包み込むような握り方に、指先がほんのりと温かくなる。
「……陸くん?」
陸ははぁ、と大きなため息をつくと、ぽつりと語る。
「……なんか俺かっこ悪いなって色々考えてた。
まなと一緒にいるのに、違うこと考えてごめん」
まなはゆっくりと首を振る。
「さっきの委員会のことだよね」
こくん、と陸が頷く。
「そうだけど、まなが思っていることとはちょっと違うかもしれない」
「……?」
いつも背筋を伸ばして凛としている陸が、背中を丸めてわかりやすく項垂れた。
「……まな、吉田くんと仲がいいよね」
吉田くんって誰……とまなが首を捻りかけたところで思い出した。
同じクラスの男子の保健委員の名前だ。
「……さっきの委員会で、まなに話しかけていた時。
どうせ大した話じゃないんだろうって決めてかかって、話を振った。
……結果、しっかり反撃食らって……俺かっこ悪いなって」
ぎゅっと、手を包む力が強くなった。
痛くはないけど簡単には振りほどけないその圧が、言葉以上に離れないでと伝えてくる。
「陸くんは、かっこ悪くなんてないよ」
陸の目が、静かに伏せられる。
「大した話ではなかったよ。
彼本人が言っていたようにただの仕事に関する愚痴だった。
それに対して、陸くんはあんなにも誠実にまっすぐ応えた。
私の彼氏、かっこいいな、なんて思いました」
きょとんとしていた陸の顔が、一瞬後にかぁっと赤くなる。
耳まで赤いのは夕日のせいだけではない。
「……ありがとう。
まなが、彼女でよかった」
駅までの通学路。
普段はまだ繋げない場所。
今日だけは、長く伸びた影も寄り添い、仲良しだった。
授業の中でも頻繁に体育祭の練習が始まった。
同じグラウンドに、陸の姿がちらりと見えることにまなは密かに喜んでいた。
陸の方も、気にしてくれているようで目が合うことが少なくない。
そのたびに、言葉にはしないけれど愛されているように感じて嬉しかった。
予行演習の中で、保健委員が救護席へと向かう。
今日の練習の中では、まなたちのクラスも救護担当に含まれている。
「保坂さん、行こうか」
「はい」
クラスの男子の列から離れて、吉田が話しかけてくる。
まなも典伽たちに手を振ると、並んで救護席へ歩き出した。
「なんかさ、委員長こっちばかり見てなかった?」
「そ、そう?」
彼の言葉に心臓に冷や汗が流れる。
「気のせいではないと思うんだけど。
オレの発言のこと、怒っているのかな」
「陸くんはそんなことで怒る人じゃないよ」
まなが思いのほか強い声で言ったので、予想外という風に吉田は目を瞬いた。
「……委員長のこと、名前で呼んでんの?
距離近くね?」
「あ……」
まなはしまったと思ったが、言葉は取り消せない。
「……私、三つ子じゃない?
前に”保坂さん”って呼ばれたときに姉が返事したことがあって。
紛らわしいから名前呼びしてもらっているんだけど、それに合わせて私的な場面では私も名前で呼ばせてもらっているの」
苦し紛れだったが、吉田はなるほど、と納得した。
「ならさ、オレも“まな”って呼んでいい?」
「え……?」
「”保坂さん”って同じ学年に三人もいることになるし、確かに紛らわしいもんな。
オレが呼びたいのはたぶん”まな”だし。
だめ?」
説明上、嫌とは言えなかった。
「……呼び捨てでないなら」
”まな”の呼び方だけは、陸だけに取っておきたい。
まなは曖昧に笑った。
「やった! じゃあ”まなちゃん”な!」
吉田と話しながら歩いていると、あっという間に救護席に着いた。
先に救護席にいた陸が、交代で立ち上がった。
「委員長お疲れっす」
「お疲れ様です」
パイプ椅子の前で軽く頭を下げると、陸も同じように頭を下げて立ち上がる。
「二人ともありがとう、競技の予行が終わったらまた戻ってくるね」
「後はまなちゃんと頑張るんで、先輩はゆっくりでもいいですよ」
陸の目が、一瞬だけ大きく開かれる。
何も言わない。
「……じゃあ、よろしく」
スッと立ち上がって行ってしまった後に、黄色い鉢巻が机の上に残っていた。
まなはそれを手に取ると走って追いかける。
「陸くん!」
「まな……?」
陸が不思議そうに振り返る。
手にした鉢巻を見て、ああ、と納得した。
「ごめん、持ってきてくれたんだ。
助かるよ」
柔らかい笑顔で微笑む彼が手を伸ばそうとしたときに、まなはその鉢巻をひっこめた。
代わりに、自分の鉢巻をほどいて渡す。
「……いい、ですか?」
差し出す手が震えていた。
陸の手がそれを包み込む。
ほんの、一瞬。
ぎゅっと力を込めて、握った。
「ありがとう。
……本当は俺も交換したかった」
受け取った鉢巻を陸が結ぶ。
テントの陰で。
お互いに色づいた頬に気付いた人は、誰もいなかった。
(言ってしまった! やってしまった!)
陸を見送ったあとに、手元に残された鉢巻を見て胸が甘く締め付けられる。
端っこには、”浅瀬 陸“の名前。
やっと手に入れた鉢巻が恥ずかしくて嬉しい。
自分の頭に結ぶと、なんでもない風を装って救護席に戻った。
「まなちゃん」
頑張れ、とこぶしを握って応援していると、横合いから声が響いた。
どうしたんだろうと思いながら隣を見ると、吉田が自分の鉢巻を差し出していた。
「……よかったら。
交換しない?」
彼の頬は少し赤くて、そして目はふざけてはいなかった。
まなは言葉に詰まる。
「……真面目に頑張るまなちゃんのこと、好きになった」
吉田の手が、鉢巻の端に触れた。
そして、そこに書かれた名前を見て、固まる。
「あ、あの……」
「……いいよ、何も言わないで」
弁解はさせてもらえなかった。
やがて、陸が競技を終えて戻ってくると、彼はすぐに立ち上がり、戻りがてらぽんっと陸の肩に手を置いた。
「真面目ぶって、職権乱用なんてやりますね。先輩」
「え……?」
陸の表情が強張る。
まなは何も言えなかった。
言い訳すればするほど、きっと信じてもらえないだろうから。
ただ、陸は本当に心から真面目に活動しているので、それが悔しかった。
近くで見ていた養護教諭が、まなの肩にぽんと触れた。
「あなたたちは何も悪くないわ。
ただ時々、青春は痛いだけ」
秋の気配を含んだ風がテントの間を通り抜けた。
その風は、恋に舞い上がるみんなの心を冷やしていった。




