―心の通知はオフらないで―・下
駅のホームに向けて歩きながら、それでも手は繋いだままだった。
「まなは、横浜線だっけ」
「はい、八王子まで中央線ですね」
「俺も、八王子まで一緒に行ってもいい?」
繋いだ手が、しっかりと握り直される。
「うん、嬉しい」
二人で、中央線のホームへ向かう。
改札なんて、手を離したほうが通りやすいのに、それでも離さない……離せなかった。
向こうのホームに南武線の車両が滑り込むのが見える。
本当はそっちの方が早いはずなのに、八王子まで来てくれる。
それだけで十分だった。
電車が八王子駅のホームに止まる。
駅には、夕焼け小焼けの発車メロディーが溢れていた。
ホームへと手を繋いだまま降りて、お互いに手を離すタイミングを掴めずにいたとき――。
「まなちゃん?」
後ろから、聞きなれた声。
慌てて、繋いでいた手をお互いに離してしまった。
ゆっくり振り返ると、ゆめがそこに立っていた。
「どうしたの、」
そんなところで、と言おうとして陸の存在に気が付いたようで、はっとゆめは黙った。
二人の近すぎる距離と、不自然に離された手で、大体の事情を察してしまったらしい。
「ごめん、まなちゃん!」
大げさなくらい謝られて、却って居たたまれなさが二人の間に積もっていく。
「まなちゃんの彼氏さん……って、あれ?」
ゆめの視線と言葉に、陸がビクッとする。
「浅瀬先輩、でしたよね。
まなちゃん何も言わないから知らなかったよ」
あからさまに陸がほっとしたように息を吐いた。
いきなり本人にトイレ云々言うのはなおくらいだよ、とまなは思う。
「あ……どうも。
まなさんとペアを組ませてもらっている、浅瀬陸です」
「保坂夢です」
にっこりとゆめが陸に笑いかける。
並んで立つ二人を見たくないと思い、視線を逸らした。
そう思ってしまった自分が嫌いだった。
「じゃあ、また。
まな、今日はありがとう。楽しかった。
保坂さんも、気を付けて」
「こちらこそ……付き合ってくれて、すごく楽しかったです」
陸が手を振る。
まなとゆめも、そっと手を振り返した。
乗り込んだ電車がゆっくりと動き出した。
夢のような、時間だった。
シートに並んで座ると、興味津々でゆめが話しかけてきた。
「で、まなちゃん? いつから”トイレの貴公子”と付き合っているの?」
「……その呼び方する限りは絶対に何も教えない」
「えぇ! ごめん、もう絶対言わないから!」
慌てたように謝るゆめに苦笑い。
本当は、教えられるようなものは、何もない。
ちょっとだけ仲のいい、ただの先輩と後輩なのだから……。
その夜、初めて用事じゃないメッセージを送った。
『保坂 愛:こんばんは。無事に家に着きました。
今日は、本当に楽しかったです』
文章の後に、悩んだ挙句、お気に入りのネコのスタンプを一つ、送った。
同じスタンプの並びにある、”大好き”や”愛してる”を見て、思わず赤くなった。
これを使う日が来るのだろうか。
そんなことを考えてしまうくらいには、まなの心はもう、すっかり陸に傾いていた。
しばらく後に返ってきたメッセージを見るまなの横顔は、――完全に恋する乙女のものだった。
九月初めの始業式の日の朝。
まなはせっせとお弁当を二つ作って詰めていた。
幸か不幸か、始業式の日が陸とまなの当番日になっていた。
まなは昨日の夜のメッセージで、補充後にお弁当を作るので一緒にお昼を食べないかと彼を誘った。
陸は二つ返事で了承をしてくれた。
夏休み中の偶然は二度は起こらず、直接会うのはあの日以来だった。
ハズレ枠だと思っていたトイレ係ならぬ保健委員は、まなにとっては楽しみの時間へと変化していた。
始業式の時から、まなの意識は三年の方へと向いていた。
すぐに濃茶の頭を見つけた。
そしてほんの一瞬目が合い、そして小さく微笑んでくれた。
それだけで、まなは今日一日がいい日だったと言えるくらい、嬉しかった。
LHRのあと、まなは保健室前で陸と落ち合った。
「久しぶりだけど、あんまり久しぶりって感じがしないですね」
毎日メッセージを交わしていたので、会っていないけど会話はしていたという状態が今の不思議な感覚を作り出していた。
「それでも……俺は会いたかった」
もうほとんど告白のような言葉が陸の口から飛び出る。
まなはどう反応するのが正解なのかわからなかったけれど、嘘はつきたくなくて、静かに「私もです」とだけ返した。
「そうだ、一つだけ……」
苦々しい顔をして、陸がいう。
まなは、静かに頷いた。
「あのね、休み明けのトイレは……大変なことが、多い」
陸の宣言通り、時間も労働力もがっつりと持って行かれた活動が終わったのは、いつもの倍近くの時間が経過した後だった。
多目的棟の最上階のトイレが最終地点である。
「……ごめん、ちょっとだけ休んでもいいかな?」
段ボール箱を何度も運搬していた陸にはさらに重労働だっただろう。
やっと仕事を終えたことにほっとしながら、陸と並んで廊下の壁にもたれかかった。
「こうやって見ると、トイレ係っていかに大事な仕事かわかりますね」
「まな、俺たちは保健委員だ。
トイレ係って俺たちだけは認めたらダメなんだ」
陸の懇願するような声がおかしくて、まなは吹き出した。
「笑いすぎ」
それにつられるように、陸も笑う。
「やっぱり、直接顔を見て話せるって全然違う」
陸のトーンが急に真面目に戻る。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
ツクツクボウシの声が、吹奏楽の練習音と混ざって聞こえる。
「最初は用事のない時でもメッセージが送れるようになって、まなからも同じように届いて、それで満足だと思っていた。
そのうちに、声が聞きたくなって、会いたくなって、触れたいなって思って……。
ごめん……嫌だったら……逃げて」
そっと、陸がまなの方に手を伸ばす。
その指先が緊張で震えているのに気が付いて、まなの方から手を握った。
陸も握り返して、そして、静かに自分の方に引き寄せた。
ぽすん、とまなの身体は簡単に陸の胸へと飛び込む。
心臓が早鐘のように音を立てていた。
頭の上の方から、震えるような吐息が聞こえる。
やさしく、包み込むように、陸はまなを抱きしめた。
もし嫌がればすぐに解けるような、どこまでも優しい抱擁。
「まな……」
祈るような、声だった。
それだけで、胸がぎゅっと苦しくなる。
「好きだ」
まな自身も、浮かんでは見ないようにしてきたその言葉が、陸の声で落とされる。
大きな声ではなかったのに、魂が震えるほど、心に響いた。
まなは恐る恐る顔を上げる。
思ったより近い場所に、怖いくらい真剣な陸の目があった。
(何も取柄のない私が、選ばれていいの……?)
不安はあった。
だが、心が我慢できないと叫んでいた。
「私も……陸くんが好きです」
その言葉を、勇気を絞り出すようにしてやっと紡ぐ。
陸はぎゅっと、離さないというように、初めてしっかりと力を入れて抱きしめた。
「……受験があって……思うように一緒にいられないだろうからとか、いろんなことを考えたんだ。
でも、ダメだった。
どんな理由を探しても、まなを諦める理由にはならない。
俺の、彼女になってください」
「はい」
しばらく二人抱き合っているうちに、はっとその場所がどこであったか気が付いた。
二人ともお互いしか見えていなさ過ぎた。
「……陸くん……ここ……。トイレの前だよ……」
「あ……」
耐えきれなくなって、まなはついに息を弾ませて笑った。
「おか、おかしい……! 私たち、トイレに縁がありすぎて……!
告白まで、トイレなんて……!」
「……“トイレの貴公子”だから?」
とうとう、耐えきれなくなったまなが座り込んで笑ってしまう。
「お願い……っ! 自分で言わないで……!」
陸も自分で言って自分で笑ってしまっていた。
”トイレ係”にぴったりな、二人の始まりだった。




