52. 深まる侵食
アクアリス、まだ見えてすらいません。
狼型魔物との遭遇以降、
周囲の異様さはさらに増していった。
まず、
道が消えた。
「……いやこれ、
もう街道じゃねぇだろ」
リンが呆れたように呟く。
元は街道だったのだろう。
だが今は、
膝下まで沈みそうな湿地と化していた。
馬車の車輪は泥に沈み、
進むたびに鈍い音を立てる。
「これ以上は厳しいですね」
御者台のレーヴァが静かに言う。
「馬車での進行はここまででしょう」
「だろうな……」
むしろよくここまで来れたものだ。
――――――
馬を安全な場所へ繋ぎ、
水と餌を十分に置いてやると、
必要最低限の荷だけ持って先へ進む。
足元はぬかるみ、
一歩ごとに体力を削られる。
空気は重く、
呼吸するだけで肺に水が溜まりそうだった。
「マジで気持ち悪ぃなここ……」
リンが顔をしかめる。
その直後だった。
「――っ」
先を歩いていたリンの足元が、
突然大きく沈んだ。
「ちっ、沼か!?」
咄嗟に踏ん張るが、
ぬかるんだ地面ごと足を取られる。
「リン!」
慌てて手を伸ばす。
沈みかけたリンの手を掴み、
全力で引き上げた。
「っ、あぶねぇ……!」
泥まみれになりながら、
リンが舌打ちした。
さっきまで立っていた場所は、
ぶくぶくと泡を立てながらなお沈み続けている。
「おいおいマジかよ……」
「地形そのものが変質していますね」
レーヴァが淡々と告げる。
「旧地図の地形情報は、
ほぼ当てにならないと考えるべきでしょう」
「最悪じゃねぇか……」
――――――
周囲に生える木々も、
異様なまでに肥大化していた。
幹は捻じれ、
枝葉は不自然に膨れ上がり、
水を吸いすぎた肉のようにぶよぶよと膨張している。
葉からは絶えず水滴が滴り落ち、
ぬかるんだ地面へ染み込んでいった。
森全体が、
どこか壊れていた。
「生命活動が過剰活性化しています」
レーヴァが淡々と分析する。
「生態系そのものが歪んでいますね」
「さらっと怖いこと言うな」
その時。
ぐにゃり、
と背後で何かが動いた。
「うおっ!?」
振り返ると、
肥大化した蔦が蛇のようにうねりながら足元へ伸びてくる。
「うわ気持ち悪っ!」
慌てて振り払う。
だが蔦はなおも追ってくる。
「鬱陶しいですね」
レーヴァが一閃。
紅蓮の斬撃が蔦をまとめて焼き払った。
断面から、
どろりとした透明な液体が溢れ出す。
「植物まで終わってんなここ……」
――――――
さらに進むにつれ、
空気中に白い靄が混じり始めた。
「霧か?」
「いえ……水蒸気ですね」
レーヴァが空を見上げる。
視界が悪くなる。
空気はさらに重く、
肌へまとわりつく湿気も濃くなっていた。
そして。
森を抜けたその先で、
僕たちは足を止めた。
「……なんだ、あれ」
遠方。
空の一角だけが、
黒く染まっていた。
そこだけが、
まるで世界から切り取られたように暗い。
さらに。
その下では、
凄まじい豪雨が大地を叩いていた。
だが、
明らかにおかしい。
「……雨、
あそこで切れてるぞ」
リンが低く呟く。
土砂降りと晴天の境界が、
一本の線を引いたように完全に分かれていた。
しかも、
その境界は微動だにしない。
風が吹いても、
雨域は一切揺れなかった。
「なるほど」
レーヴァが静かに目を細める。
「ようやく、
本番ですね」
湿った風が吹き抜ける。
その向こうにある死の街を思いながら、
僕は無意識に息を呑んだ。
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ここまでお読みいただきありがとうございます。
死の街アクアリス、
どうやら辿り着くまでが既に大変そうです。
次回、あの雨へ突入します。
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