32 月下の来訪者
ユダが、訓練場のすみに落ちていた縄を拾ってきた。
ふるえる手で、マルコの両手首を、後ろで縛る。
マルコは、抵抗しなかった。
うつむいたまま、石だたみにひざをついていた。
「……ヤコブさん、傷を」
「大丈夫です。急所は外れていますから」
ヤコブは、わき腹を押さえたまま、石像の上を見上げた。
「ニコラ」
ニコラが、ふわりと肩に降りてきた。
片手で紙に短く書きつけて、足の筒に入れる。
[第一王子マルコ拘束。至急、本部より応援を]
「頼んだぞ」
ニコラは一度だけ、ヤコブの頬に顔をよせて、夜空へ飛びたった。
白い羽が、月の中で、小さくなっていった。
「……ユダさん」
「はい」
「奥様と娘さんは、本部で保護しています。もう、大丈夫ですよ」
ユダの肩が、ゆれた。
何か言おうとして、言葉にならなくて、ただ、深く頭を下げた。
───
パン……
パン……
パン……
ゆっくりとした拍手が、闇の奥から聞こえた。
「——!」
ヤコブは剣を拾って、ふり返った。
たいまつの光が届かない、訓練場の入り口。
ひとりの男が、立っていた。
旅人のような、色あせた外套。
整えられた、あごひげ。
月明かりの下で、青い瞳だけが、やけに澄んでいた。
「見事だったよ、副総監殿。いいものを見せてもらった」
まるで友人に話しかけるようなおだやかな声だった。
(……この顔)
五年前。
外交の場で、国王の後ろに控えていたとき——。
「……リザエル王」
背後で、マルコが息をのんだ。
「……着くのが予定かなり早いですね……」
男は、マルコを見て、困ったように眉を下げた。
「マルコ殿下。爪が甘かったね。……でもまあ、ここまでよくがんばった」
「リザエル王…ダビデ殿」
「……交渉の……依頼された毒は実はまだ…」
「交渉?」
リザエル王は、少しだけ首をかしげた。
「もう、いらないよ。ごめんね」
マルコの顔から、すっと血の気が引いた。
ヤコブは剣を構えて、一歩、前に出ようとした。
——出ようと、した。
(……?)
足が、動かない。
傷の痛みではなかった。
剣をにぎる指も、爪の先ほども、言うことをきかない。
ユダの手から、紫の魔石がこぼれ落ちた。
カツン。
拾おうとしたユダの手も、宙で止まっていた。
「無理しないほうがいいよ。傷にさわる」
リザエル王は、本当に心配そうに言った。
「安心して。今夜は、誰も殺さないから」
ゆらり。
外套の足もとで、何かがゆれた。
細くて、長い影。
月の光を受けて、ぬれたように、にぶく光っていた。
(なぜだ……なぜ、誰も来ない……)
訓練場の外には、兵がいたはずだ。
城の中にも、見回りの足音があったはずだ。
聞こえるのは、たいまつのはぜる音だけだった。
「静かだろう?」
男は城を見上げて、目を細めた。
「この城も、王都も……みんな、ぐっすり眠ってる」
それから、ふと思い出したように、ヤコブへ顔を向けた。
「ところで」
にこりと笑った。
「霊獣ダンゴムシの使い……リク君は、どこにいるのかな?」
ヤコブののどが、ひくりと動いた。
(リク君……)
(……戻ってくるな)
せめて、鳩たちに。
左目に意識を集めて、飛びたったばかりのニコラの視界を、さがした。
——何も、見えなかった。
いつもなら迷わずつながるはずの白い翼が、夜空のどこにもいない。
叫びたかった。
声さえ、もう、出なかった。
続く




