14 副総艦の妻
森を抜けた頃には、馬は大きく息を切らしていた。
ぜぃ、ぜぃ、と荒い呼吸が夜気に混じる。
日はすでに完全に落ちて、辺りは静まり返り、風の音だけが木々を揺らしていた。
「……ここだな」
エトが周囲を見渡す。
「この辺りは魔物が出ない。ここで野営する」
リクが頷いた、その直後。
霊獣[アシダカグモ]サスケがするりと地面に降りる。
次の瞬間――
細い糸が、音もなく広がった。
木々から木々へ、地面から空間へ。半径五十メートルほどの範囲を囲うように、中心には糸が幾重にも張り巡らされていく。
やがて中心のそれは、テントのように空間を覆うねぐらへと形を変えた。
ダンさんがひょっことローブから顔を出す。
「すごいな!さすが蜘蛛の霊獣!」
「これで、半径50メートルは聴覚型の霊獣が侵入したら感知できる」
エトが淡々と言う。
「この糸は音を吸うからな。霊獣の聴覚を拡張しても聴こえないはずだ」
リクは中心の空間に一歩踏み込む。
風の音すら、遠くに消えたようだった。
「すごいですね……」
「休むぞ」
エトは小さな袋から携帯食を取り出す。そして、ひとつの瓶を開けた。
中には、なめらかなパテ。
「……春香さんが用意してくれたやつですね」
「あぁ」
短く答える声は、どこか柔らかい。
リクは、それを見て――
ふと、今朝の光景を思い出した。
――あれは、朝食の最中だった。
リクとエト、そして春香。
静かな時間。
その空気を切り裂くように――
霊獣[伝書鳩]アベルが窓から飛び込んできた。
赤い封筒がくわえられていた。
エトと春香が、同時に立ち上がる。
「緊急だ! ダニエルさんの救出指示だ」
空気が、一瞬で変わる。
「三分後に出る。準備しろ」
「わ、わかりました!」
リクが慌てて立ち上がる。
だが春香は違った。すでに動いていた。
無駄のない動きで携帯食の袋をまとめ、テーブルに置く。
そのまま外へ駆け出し、馬の手綱を取り、玄関を開け放つ。
その表情は、いつもの穏やかさではない。
凛とした、緊迫した表情だった。
リクは水筒を掴み、ローブを羽織る。
その肩に、ダンさんが軽やかに飛び乗った。
「ダニエル見つかったのか!?」
エトはすでに装備を整えながら手紙を読む。
「場所はアルク地方の古城。ダニエルさんの生存が確認された」
「良かったな!」
「しかし北部地方か……夕暮れまでに中間の森を抜けないと」
「エト!」
春香が馬を引いて戻ってくる。
「もう行きます。急がないと――」
エトが馬に跨ろうとした、その時。
「待ちなさい」
春香が、袋を差し出す。
「必ず食べなさい。少しでいいから」
まっすぐな視線。
「あなたは、自分のことをおろそかにしすぎる」
一瞬だけ、沈黙。
「……わかりました、春香さん」
エトは素直に受け取った。
春香は小さく頷き、二人を見る。
「気をつけて」
「行くぞ、リク!」
アベルが空へ舞い上がる。
「はいっ!」
馬が、地を蹴った。勢いよく走り出す。
その中で、リクはふと振り返る。
屋敷の前。
春香は、そこに立っていた。
両手を組み、深く頭を下げている。
――祈るように。
ずっと、そのまま。
リクは、ゆっくりと目を閉じた。
(……絶対に助ける)
夜の静寂の中。
決意だけが、はっきりと胸に残っていた。
続く




