92話 昏き声の誘い⑤
砂粒の混じった風が、肌を刺すように叩いた。
薄手のドレスひとつでは、砂漠の夜はあまりにも冷たい。
容赦なく奪われていく体温。だが、ルナリスはそれを感じることもなく、ただ歩き続けていた。
積み重なる砂が、彼女の足跡を瞬く間に覆い隠す。
暗闇の中、彷徨う影は北へ北へと進んでいく。
帰りたい。
還りたい。
大いなる母の懐へ。
その思念だけが、彼女の足を動かしていた。
ズズ……と、砂の奥が蠢く。
不穏な気配に気づいても、ルナリスの瞳は揺れなかった。
ふいに、遠くから声が届いた。はっと、意識の淵が震える。
――ルナリス!
もう一度、その声が響いた。
それは閉ざされた心を引き上げるほど、力強く、温かかった。
(リヒト……?)
ふと、ルナリスは我に返る。
まるで長い夢から醒めたような、ぼんやりとした感覚。
なぜ自分は砂漠にいるのだろう。ぶるりと身体を震わせた瞬間、急激に寒さが押し寄せた。
「ルナリス!」
呼び声に、彼女は振り返る。
砂丘の向こうから、駆けてくる影があった。
リヒトだ。ゼファーやラセルたちの姿も見える。
思わず唇が綻ぶ。だが、すぐにそれは別の感情へと変わっていった。
欲望。嫉妬。疑念。
そして、そんな浅ましい感情を抱いている自分への、激しい嫌悪。
再び、昏い囁きが意識を包む。心の奥底から這い出してくるような声だった。
リヒトのもとへ行きたい。
隣にいたい。
彼のすべてが欲しい。
でも――。
(知られたくない……)
こんな気持ちを抱いてしまう、自分のことなど。
どうすればいいのか、分からない。
その迷いの中で、足元がぐらりと揺れた。
砂が、崩れる。轟音とともに世界が沈む。
ルナリスの身体は、抗う間もなく闇へと呑まれていった。
(――リヒト!)
落下の瞬間、彼女の瞳に映ったのは、駆け寄る彼の姿。
伸ばされた手が見える。必死に叫んでいる。
けれど、その手は届かない。
崩れ落ちる砂がすべてを遮り、声も光も奪い去った。
そして、闇がすべてを飲み込んだ。




