91話 昏き声の誘い④
異変に気づいたリヒトとベルは、青の雫亭へ駆け戻った。
何事かと目を白黒させる主人に構うことなく、扉を乱暴に押し開ける。目に飛び込んできたのは、床に倒れ込むサフィナとオズの姿だった。
ティオに肩を貸しているグレイスがこちらを振り返る。リヒトは息を呑み、駆け寄った。
「何があった!?」
「分からない。お風呂に入っていたら、急に悲鳴が聞こえて……」
グレイスは言葉どおり、髪を濡らしたままのラフな格好だった。湯上がりの体を気にも留めず、必死にティオを支えている。
部屋の中央では、アイゼンやマシューが倒れた二人の介抱にあたっていた。
その傍らで、ラセルが掠れた声を漏らす。
「……あの欠片です、殿下」
「なんだって……!」
「小箱から急に瘴気が噴き出して……。我々は一瞬気を失った程度でしたが、ふたりは……」
震える指先が、床に転がる小箱を示した。
中身は空。
封印が、解かれている。背筋に、ぞっとしたものが伝った。
傍らには、ザヒールの姿もあった。少年は眉を寄せ、小さな手をサフィナの額に当てている。
「近くで瘴気を浴びたので、気を失っているのだと思います……。命に別状はないはずです。しばらくすれば、目を覚ますかと」
「そうか……」
頷きながらも、胸の奥を不安が締めつけていく。
視線を巡らせると、途端に心臓が止まりかけるような焦燥が走る。
彼女がいない。部屋のどこにも。
「――ルナリスは!?」
弾かれたように顔を上げたリヒトに、ザヒールが「えっ」と困惑した声を上げた。
「ルナリスさんなら、オアシスへ向かっていきましたけれど……会いませんでしたか?」
「オアシス……?」
ティオとグレイスが顔を見合わせ、ラセルたちも息を呑む。
リヒトは血の気が引いたような顔で、言葉を失っていた。
――彼女がオアシスへ行った?
リヒトは会っていない。宿へ戻る時だって、ルナリスの姿はなかった。
「本当に、彼女はオアシスへ?」
「ええ。てっきり、おふたりを探しに行かれたものだと……」
ザヒールの言葉に、リヒトの胸がざわめく。
まさか。
先ほどのベルとのやり取りを、見られていたのか?
リヒト自身にやましいことは何もない。だが、遠目に見えた光景が誤解を生む可能性はある。
気まずさから宿に戻れないだけなら、それでよかった。彼女が無事でさえいてくれたら。
けれど、消えた欠片のことを思うと、嫌な予感ばかりが膨らんでいく。
「ルナリスを探してくる!」
言い残すなり、リヒトは部屋を飛び出した。
夜気が胸を刺す。
(ルナリス……!)
脳裏に、彼女の姿が浮かぶ。
それは愛おしい笑顔ではなく、菫青色の瞳を不安げに揺らした姿だった。
もしあの欠片が、再び彼女の精神を蝕もうとしているのだとしたら。
あるいは、すでに――。
恐ろしい想像を振り払うように、リヒトは街を駆け抜けた。
宿の周りにも、オアシスにも、彼女の姿はない。
焦りと不安が喉を焼く。
そのとき、黒狼が夜の闇を裂くように現れた。
「ゼファー……!」
口には、何かを咥えている。
さらさらと風を受けて揺れる薄布。見覚えのあるストールだった。
ルナリスが、肩にかけていたものだ。
「これをどこで?」
リヒトがストールを受け取りながら問いかける。ゼファーは低く唸り、案内するかのように駆け出した。
ゼファーが立ち止まったのは、街の門へと続く石畳の道だった。
黒狼は鼻を高く上げ、しきりに匂いを嗅ぎ取っている。
その鋭い金の瞳が、ゆっくりと街の外――砂漠の彼方を見据えた。
「まさか……砂漠へ行ったのか!?」
息を呑むリヒトの問いに、ゼファーは短く鳴いた。
それは、肯定の返事だった。
「ルナリス……!」
胸の奥で何かが冷たく鳴った。
何故? と考えるよりも先に、足が動く。
「お待ちください、殿下!」
門を抜けようとするリヒトの背後から、慌てた声が響いた。振り返ると、ラセルを先頭に護衛たちが一斉に駆け寄ってくる。
砂の上を踏みしめ、息を切らせながら追いついたラセルが叫ぶ。
「どこへ行くおつもりですか!」
「ルナリスを追う。彼女は……街の外へ行った」
「砂漠へ!?」
驚愕に声を上げるマシュー。
その表情が、すぐに不安へと変わった。
「お一人で行くのは、あまりにも危険です。夜の砂漠は――」
マシューの言葉に、他の護衛たちも頷く。
夜の砂漠には、昼とは違った厳しさがある。
ぐんと下がる気温。容赦なく吹き荒れる砂嵐。
そして、砂虫たちが活発になるのも、この時間だ。
一歩道を誤れば、地下に口を開けた古代遺跡の崩落に巻き込まれる恐れさえある。
それでも、リヒトには立ち止まっている暇などなかった。
「我々もお供します」
ラセルの声に、マシュー、アイゼンらも剣を握りしめて続く。
「ゼファー、ルナリスの匂いを辿れるか?」
リヒトの言葉に、黒狼は金の瞳を細め、鼻先を地に近づけた。
砂に混じる微かな残り香を嗅ぎ取り、低く吠える。
まるで、「そんなこと、当然だ」とでも言うように。
「頼む。案内してくれ」
ゼファーは首をもたげ、夜気を切り裂くように走り出す。
その後を、リヒトと護衛たちが続く。
月光が砂に反射し、まるで白銀の荒野を進むようだった。
彼らの影が、長く、静かに伸びていく。




